歴史、教義と習慣、そのあらまし
習慣をすべて述べるのは簡単ではありません。地域によって異なる習慣の教会もあります。即興の試みとして述べてみます。
主の御名には特別敬意を払い、敬虔な事以外には決して用いてはなりません。みことばが開かれると、私たちは起立します。みことばを開くということは、私たちの、ただ中に主がおられることをあらわします。祈るときには、たいてい跪きます。
敬虔さをもって主を礼拝し、主を礼拝しているときは、いつも主が臨在されていることを忘れません。敬虔が何を意味するかは、集会によって異なりますが、その原則は重要です。
礼拝において、私たちはみことばを礼拝の中心にします。なぜなら、主はみことばを通して私たちに語りかけられるからです。
私たちは、霊的な事柄に関して祈り、世の富や成功のために祈りません。人は不幸であるときには、えてして自然的な事柄を主に祈ります。友の癒しを求めたり、経済的な苦境にいる者の仕事を救うよう求めて祈ります。しかし主は、私たちが必要なものをご存じであると信じており、あえて私たちが思い起こさせることではありません。そのため私たちは霊的な事柄を祈ります。それは困難に立ち向かうための強さや、主のみこころがなされることを認める強さ、これらを求めて祈ります。主は、私たちができることよりも遙かに、その人のことを気にかけていらっしゃいます。人のために祈ることもできますが、そのときには、主のみがその人たちにとって、何が本当に善いのかをご存じであることを心すべきです。
著作は結婚は神聖であると教えており、結婚についての多くの習慣を持っています。
みことばの神聖さを信じていますので、「本」自体を、敬意をもってあつかいます。みことばにある話を使って、冗談を言ったりしません。
いのちは永遠であると信じ、葬儀もこれを念頭において執り行われます。まず、私たちは葬儀を「復活式」と呼びます。人が霊界で目覚めることに注目するからです。愛する人の死を悲しみますが、次の世界でのいのちのことや、式に至るまで、いかにして天界の幸福へと導かれてきたかを多く語ります。
著作は自由の重要さを教えており、習慣においても、この教えに敬意を払おうとしています。例えば、自由に判断できるように、成人になるまで教会への加入を勧めません。教会への献金額を公にしません。主に対する感謝の贈り物として、自由に献金してもらうためです。
不慮の災難が起これば、主ご自身はその災難を望まれなかったはずだし、計画もされていないと考えるよう努めます。災難によって主がもたらされる善いものがあるはずだ、と努めて考えます。それは決して災難を悲しまないということではありません。そうするべきです。主もその方々を哀れみ、たちまちお救いになることを示そうとします。
新教会では、高い存在がいますことを信じ、その方が望んでいることを行おうと努めるなら、人はすべて救われることが出来ると教えます。そのため、人に私たちの教会に加わるよう押しつけません。自ら抱く信仰によって、天界に行くことができる、と私たちは知っています。しかし私たちはその方たちに、新教会は主が真理を完全な状態でお示しになっていると申し上げます。新教会はこの世で最後のそして最高の宗教であり、天界と地上をつなぐものであると信じています。
すべての方が救われることができる、との教えによって、私たちと異なった考えを持つ方の善いところに敬意を払えるようになれると思っています。