神である主イエス・キリストが支配される

―新教会の日によせて―

エリック・E・サンドストローム牧師

「見よ,神の幕屋は今や人とともにあり、神は人とともに住まわれる」(「黙示録」21・3,)


 主は、創造された者すべてに天界の幸せを望まれています。主の愛は永遠であり、そのため新しく創られるすべての者それぞれが、永遠の幸せに向かって創造されています。主は人が天界に入るためには何をすべきかを明らかにされました。そのご命令に従っているうちに、天界も地上に降りてきて、地上の主の教会は「人の天界」となります(『神の摂理』30)。したがって、教会の人間は主に導かれるならば、「教会の天使」と呼ばれるでしょう。なぜなら無垢とは主おひとりに、すなわちみことばに導かれることであるからです。

 人が最も無垢であった黄金時代や、その無垢が失われてしまったという伝説は数えきれません。そしてまた、その頃と同じような黄金時代が、復活して戻って来るとの神話や物語もあります。伝統的なキリスト教では、アダムの罪やノアの洪水として無垢が失われたとしています。そして新しいユートピアは、主の再臨やこの世の終わりに結びつけられたり、何かを行なうとたちまち救いをもたらされたり、忠実であった者、選ばれた者だけがあがなわれるという考えに結びつけられたりするようになりました。

 新教会では、遠い昔の黄金時代の伝説や、約束に基づいてやってくる聖なる都とは何であるかを、隠すことなく明らかに、また正確に説明しています。神はそれぞれの人間の内側にしか存在しない〔自分が神である〕と信じるようになったとき、有史以前にあった最古代教会は終焉を迎えます。そう信じたのは洪水で滅んだ「巨人」でした。ノアの頃に、このとんでもない虚偽を生み出してしまった知覚を、新しく形成された良心に取り替えることで、人の心は救われます。私たちは、洪水後の良心の時代にいる人類です。そしてそれからのち、パトモス島にいるヨハネが見た新しいエルサレムは、新しい時代である新教会を預言しています。

 スヴェーデンボリの著作が1749年から1771年にかけて出版され、その時をもって新しい時代が始まりました。ヨーロッパでの啓蒙の時代であり、理性の時代であるこの新しい時代のまっただ中に、これらの神学著作は人目につかず世に出たのです。その著作は学識層や社会のいろいろな権力層にも同様に浸透してゆきました。教会やキリスト教系の大学に、匿名でたくさんの著作が送られ、本屋でも安く、また分冊でも入手できました。

 では大衆は一般に、抵抗することなく、喜びとともに、この作品を受け入れたでしょうか? 著者そして編者としてのスヴェーデンボリは、長い間求められたけれども見つからなかった聖書の内なるメッセージが説き明かされて、世は驚くにちがいないと予期していました。彼は新しくされた見解が喜びとともに迎えられるものと期待していたのです。それはちょうど羊飼いたちが、「自分たちに語られたことを広く知らせ」、「語られたことを人が知って、主の栄光がほめたたえられる」よう、ベツレヘムに急いだようなものでした。スヴェーデンボリは、たくさんの人たちが喜びながら、著作に押し寄せてくるものと期待していました。

 ところがそうではありませんでした。当時、聖書は、ただ字義通りにしか受け止められていませんでした。スヴェーデンボリは、自分の著作が評判にもならず、反応もほとんどなかったため、悲しみました。天使がわけをたずねると、スヴェーデンボリは答えています。「今や主は、過去に公にされた霊的な知識のどれよりも、はるかに超えて優れ、かつ重要な秘密を明かされました。しかし、世は全く価値がないものと受け取ったのです(『真のキリスト教』848)。スヴェーデンボリが、『天界の秘義』は4部しか売れなかったことを告げると、天使はこう言って慰めました。「無理強いすることはできません。信仰にいる者のみが最初に読むことになるでしょう(『霊界日記』4422 )

 しかし世の中に、新教会の教えを受け付けない人がいるのは、なぜでしょうか? 何はともあれ、「著作」は神より出て天から降りてきた「新しいエルサレム」であるはずです。ヨハネは第三の天界にあげられ、教義としての新教会が、都の形をしているのをそこで見たのです!(『啓示された黙示録』896)。 聖なる都エルサレムは、測ると1300平方マイルもある巨大なもので、本当に地上に降りてきたら、たいへんなことで大惨事が起きてしまうでしょう。そんなものは宇宙に帰ってもらいたいと思います! だから、人は聖なる都が、教義の面での新教会であることに喜んでもいいのではないでしょうか。

 新しいエルサレムとは「教義の面での新教会」です。「著作」は都であり、都とは「著作」のことであり、書きあらわされた天界の教義なのです。しかしこれは理解されず、世はまったく認めないであろうと預言されていました。再臨を預言するものの一つはこう言っています。「見よわたしは夜、盗人のように来る(黙示録3・3,,16・15)。これは、キリスト教教会は外面的な礼拝しか行っていないので、善と真理が失われ、再臨を認めないことを意味しています。(『啓示された黙示録』164,705参照)今日にいたるまで、多くの人々が熱心に再臨を待っていたにもかかわらず、実際に再臨があっても、認めなかったのです。逆に新教会の主張に対し「聖なる都が、本であったりするものか」と強く疑問をいだきます。しかし、「教えていただいてよかった。感謝します」と言う人もいます。

 最後の「著作」である『真のキリスト教』が発刊された1771年以来、世に語られ続けました。それは、特に宣伝されることもなく、一般の人間には手に入れやすいものでもありませんでした。そこで、最初に主が世に来られたときも、世はだれもそれを認めなかったことを思い起こします。そのとき、創造主である神が肉体をまとわれ、その肉体のたましいとして存在され、そののち肉体をも神的なもの・神ご自身になされましたが、世のほとんどの人はまったく理解できませんでした。イエスが初めて人前で教えられたときにも、みな、イエスはナザレから来たものとしか考えませんでした。人は「ガリラヤのナザレからきた、預言者イエスではないか。(マタイ21・11)としか言いません。主の敵は、それぞれ言います、「ナザレから来たのか。調べて見ろ、ガリラヤからは預言者は出ない(ヨハネ7・52)。ベツレヘムで主がお生まれになってから約30年も経っています。当時、羊飼いは、ベツレヘムでのメシアの誕生を告げながら、町を走ったのでした。しかしそのとき、だれがこれを思い出したでしょうか。イエスはベツレヘム人ではなく、ナザレ人としてしか知られませんでした。

 そのため主が地上にお生まれになったときに、どなたが主か、だれも知りませんでした。主がベツレヘムにいたダビデの息子にまでさかのぼる、王の血筋であったことを知る者もほとんどいませんでした。何も知らなかったため、人は主を受け入れず、みことば自体が理解されなくなるという危機がやってきました。この危機は、教会が終末に近づくと必ず生じます。そしてほんとうにわずかの人だけが、次の教会の始まりに気づくのです。

 再臨でもそうでした。スヴェーデンボリは霊界の驚くべき事柄を目撃し、聖書の有名な物語の内なる意味を出版しました。しかし「著作」はほとんど例外なく、受け入れられませんでした。そのわけは簡単です。「著作」は複雑であり、すぐには理解できないのです。真理は無限であるものから生まれているため、入り組んでいます。真理は、単純でもあるのですが、それは理解しえたとき初めてそうなります。教会がみことばから生まれるのは事実です(『聖書』76)。それゆえ、地上に新しい教会ができる以前に、主の再臨のみことばとして「著作」が不可欠であるのは、本質的なことです。これには時間がかかります。「著作」は、聖書の内に封印された真の意義を明らかにします。その意義は、新しい教会のあり方を示しているはずです。

  250年後の今、新しい教会を示した本に基づいて、新教会が設立されました。この本とはどんなものなのでしょうか。その表題自体から、地上のどの書籍よりも、優れているのがわかります。『アルカナ・コレスティア、聖書と神のみことばの内にある天界の秘義』、『天界とその驚異、そして地獄、見聞きしてきたことから』、『神の愛と知恵に関する天使の知恵』そして『神の摂理に関する天使の知恵』、『啓示された黙示録。預言され、今にいたるまで封印されたアルカナが明らかにされる』。天界で見聞きした天界の秘義は、今や地上にても入手でき、これも題名の一つである『新しい教会の普遍的な神学』〔『真のキリスト教』の副題〕をうち立てました。これらの本から新しいまたは真のキリスト教を興すことができたのです。

 そして「旧い教会の終焉と新しい教会の始まり」が黙示録に記され、実際に読むことができます。都であり花嫁である「新しいエルサレム」とは、この新しい教会のことを描いています。同じことが、旧約聖書のいたるところに預言されています。ダニエルは「夜のうちにみた幻….人の子、その主権は決して過ぎ去ることはない」と同じ幻を見て、預言しています(ダニエル7・.13,14)

 旧約聖書の幕屋もまた再臨します。「見よ、神の幕屋は人とともにある」。その幕屋は、アダムの最古代教会から来た天的な天界を象徴しています。幕屋または古代の天幕は、今や都としてヨハネに見えました。幕屋は今や聖なる都なのです。「神の幕屋は人とともにあり、神は人とともに住まわれる

 そのメッセージは、黙示録の最初にあるものと同じであり、ヘンデルのハレルヤ・コーラスでも祝されています──この世の王国は、私たちの主の王国・キリストの王国となった。そして主は永遠に支配される(黙示録11・15)。これは、「全天界と教会は、最初あったように主のものとなった。そして今や、主の神的人間の王国ともなった。主は天界と教会を永遠に治められる(『啓示された黙示録』520) ことを意味します。

 しかし神の幕屋が見えるようになる前には、いくつかの準備の段階が必要です。霊界で沼地がどのようになるか、さきほどの朗読で読みました。みことばの上に石が敷かれ、その上に幕屋が見えます。そのとき幕屋は「天界からの光の流入で、さらに壮麗」となります。そしてそのとき幕屋は「エルサレムのものと同じような神殿として現われます」。これは霊界で見ることのできた素晴らしい光景です。そしてそれよりもさらに素晴らしいものが見えます。神殿が消え去り、いしずえの石の上に、主おひとりがお立ちになられる姿が見えます。その石はみことばです。主は、まさに「黙示録」第1章に描かれた通りに、見ることができます。天使はこの光景に圧倒され、神殿が再びあらわれますが、今度は幕屋は神殿の内にあります。これで「神の幕屋は人とともにあり、神は人とともに住まわれる」とはどのようなものかがわかります(『啓示された黙示録』926)

 新しいエルサレムが、幕屋でもあり、神殿でもあるのがどういうことなのか、そしてみことばにあるように、どのようにして主が新しい教会の中心にいらっしゃるのかがわかります。神殿は、主への礼拝に対する現代の象徴です。幕屋は、古代の象徴であり、今もそう象徴しています。大人や人間の生活の中で、幼い頃の無垢を保つ方法は、最古代教会という霊的文明の本源にもどることであることが、幕屋で意味されています。最も初めの愛と真理の知識が、現代では新教会はいかにあるべきという教義の中で述べられています。この全体像の中心に、主がおられるというのが、主の教義です。天界の教義は、神である主の教えを聖書の解釈によって描き出すことであり、聖書の物語の霊的な意味を説き明かすことです。そうすることで、神はどなたであるのか、どのようにして神は神でありうるのか、どのように神を礼拝し、神の教えに従って生きてゆくかを、簡単にそして合理的に示します。

 それゆえ、新教会は幕屋でありながら、同時に都でもあるのです。そのいしずえはみことばです。主ご自身は、ご自身のことばの上にお立ちになって見えます。最古代の幕屋とは、幼い頃の無垢なる気持ちであり、それは神殿の内側にあって、大人であり、今の私たちの同じ主への気持ちです。新しい時代は、古い時代と変わらない愛が脈々と続いています。それゆえ、新教会は間違いなく、発展し繁栄し続けます。なぜなら、これは預言されており、主がその神的人間性によって支配されているからです。「新しいエルサレム」の中に神殿が見えないのは、主ご自身が神殿であられるからです。主によって生きれば、神殿は消え去り、ただ主ご自身を見たもうことになります。したがって、主の新しい天界から、ご自身の教会がそれぞれの人の内に降りてくるように、主おひとりが教会をお造りになります。

 どちらの世界にあっても、主の新しい王国の中心となるメッセージは、神である主イエス・キリストが治められ、主の王国は永遠に続く、ということです。この麗しいメッセージは1771年に出版された最後の作品に書かれていて、この世で主に従った12人の弟子が1770年の6月19日に全霊界にのべ伝えたという出来事も記されています。これは新教会の天界での誕生の日であり、新しい時代の真のはじまりです。

 新しい時代においては、過去や他の宗教で貴重であったことすべてが、容易に移しかえられています。古代で正真正銘価値のあった幕屋は、神殿の中に置かれます。古い伝統は新しくされますが、元の内容から離れることはありません。しかし偽りの伝統は、痛みとともに取り除かれます。人間自身がでっちあげ、または受け入れてしまった悪は取り除かねばなりません。

 主の御名を求めるそれぞれの世代が増えるに応じて、主の臨在が完全となってゆきます。主ご自身が彼らとともにあり、彼らの神となられます。すべての国民は救われることができ、主の光の中を歩むことができます。「来て、いのちの水を自由に飲みなさい。」とすべての人は聞きます。新しい王国と壮麗な都、その中には神の幕屋があり、「今や人とともにあり、主ご自身は人とともにいて、主は私たちの神であられます」。アーメン。


タイトルThe Lord God Jesus Christ Reigns
説教者:Rev. Erick E. Sandstrom
年月日:2002年6月16日
場所:日本新エルサレム教会(東京・杉並区)
併読箇所:
『真のキリスト教』790 (「黙示録」21・3,24,25 22・16,17,20) 『啓示された黙示録』926
訳者:鈴木泰之