弟子たちの足を洗う

トマス・クライン司教


そのとき、主と弟子たちの旅は、クライマックスを迎えようとしていました。
最後の晩餐、その前に、主は弟子を集められます。十字架での苦難の数時間前のことです。
選ばれた者たちに話をなされ、とっておきの真理、知っておかなければならない真理を明かされます。ご自分が父なる神ご自身であることです。弟子は、理解し、信じました。
そして、過ぎこしの祭りを祝います。

すると突然、主は、弟子たちがあっと驚くことをなさいました。理解することすらできないでしょう。
主は上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれます。たらいに水を入れ、弟子たちの前にひざまずき、そして彼らの足を洗おうとなされたのです。
弟子たちは驚きます。衝撃的なことです。
救い主であり、無限の神、天地の神である主が、ひざまずいて自分達の足を洗う。これは身分の低い召使の仕事です。主人が行うことではありません。
主はペトロのところにお越しになります。ペトロは「主よ私の足を洗わないでください。」と声を張り上げます。すると、「もし洗わなければ、あなたがたと私とは、何の関係もありません。」と応えられます。ペトロは、「それでは足だけではなく、手も頭もよく洗ってください。」と返しますが、これに対する主の答えは重要です。「その必要はありません。足さえ洗えばあなたがたは清いのです」。そして主は聖餐式をお定さだめになります。そして彼らは感謝しながら、ゲッセマネの園に向かってゆきました。

主は喜んで、私たちの悪を洗い清められます。それは、主がもっとも心にかけておられることの一つです。父親または母親が、自分の赤ちゃんを洗う様子を想像してください。いとしい子を抱きかかえ、その子の顔を丹念にぬぐっています。心をこめ、細心の注意を払います。
その子が、泥で汚れきっているからといって、母の愛が変わるものではありません。
この子は汚いので捨ててしまい、かわりに他の子を洗おう。そんなことをいう母親など、一人もいません。主が悪を洗い清めようとするのは、まさにこれと同じ状況です。主に罪を清めてくださいとお願いしても、決して怒ることなく、主はやさしい心で応えてくださいます。主に悪の洗い清めを請えば、主は細心の注意を払い、心を込めて、優しく悪を清めます。へばりついた悪が多すぎるからといって、決して拒むことはありません。主の姿勢は、いつでも、幼子に向かう、いつくしみ深い親のようです。
主は、たとえ罪が緋のようであっても、雪のように白くなるであろう、とおっしゃいます。

この悔い改めについては、神学上の問題があります。
これは伝統的なキリスト教会が幾世紀もの間、もてあましてきたものです。
問題はこうです。主のみが私たちの罪を清められるはずだ、私たちは自分では何もできない。
しかし、主のみが罪を清めることができるのであれば、善行にどんな意味があるのだろうか。そして、極端に走る教会が出てきます。信仰によって救われる、信仰のみだ。悔い改めや善行は意味がない。
天、あるいは地獄に対してこいねがうことだけが正しく、行動は関係ないという解決策を示す者もいます。またある者は、救いは主の恩寵のみからくる、と問題をかたづけてしまいます。

しかし著作は、悔い改め、霊的な清めに関して全く新しい視点を提供してくれました。そう、確かに罪を清めることができるのは主のみです。その意味では従来のキリスト教会は正しい。しかし、そうだとはいっても、清めの過程の中で、私たちの行いが全く意味をなさないわけではありません。その過程はいたって簡明です。私たちは、あたかも自らなすように、自分の生活から悪を退けねばならない、ということです。人は積極的に自分から、悪を退けなければなりません。悪は神に対する罪として避けなければならないのです。つまりこれは実際には、主を仰ぎ迎え、悪を清めていただくことに他なりません。

別の言い方をしてみましょう。本人が生活の外面的に悪に抵抗しようと努力すれば、主はやって来られて、内側からも悪を取り除かれます。私たちが外の面で悪を取り除こうとしさえすれば、主がお越しになり、その悪を根絶やしにされます。
主を仰ぎ迎え、悪から洗い清めていただかねばなりません。私たちにできることは、ただそれだけです。悪を取り除こうとして、それが単に悪い習慣にすぎない場合でも、主の助けがなければ、必ず失敗します。間違いなく、そうなります。
もしあなたに、怒り、嫉妬、貪欲などの悪い習慣があり、それを克服しようとしても、自分の力で行おうとするなら、失敗します。たとえ、みかけで進歩があったとしても、悪習は、三つとも残っていて、いつか表に出る日を待っています。事実、自分の心の奥底を点検すれば、その悪習について、全く進歩がないことがわかります。どんなに懸命に努力したとしても、それらの悪は何年も留まり続けています。ある悪習から離れようと真剣に主に仰ぎ願ったか、自分一人では何もできないと心底認めているか、振りかえってみてください。
罪は、主に対する罪として避けなければならない、と著作は強調しています。
ただ悪を避け、遠ざかるだけでは、不十分です。本当に悪から自由になることは、できません。
主に対する罪ゆえに、悪を避けなければなりません。そうすることによってのみ、主にいのちを委ね、罪を洗い清めるよう願うことができます。
新教会に属する人間は、年に一、二度、自分のいのちを厳粛に点検してみるべきだと、著作にあります。新教会に属する人間は、年に数度自分のいのちを厳粛に点検せねばなりません。年のはじめにこれを行う方や、また折り目毎の聖餐式の前に、行う方がいます。
座って、自分のいのちを厳粛に点検し、自分にあるすべての悪をリストアップしてみます。
おそらく、長いリストになることでしょう。リストはより個別具体的であらねばならないと、著作にはあります。単に、主よ、私は罪人です、と告白するのでは足りません。主は、それをよくご存知だからです。どんな悪を行っているか、具体的に自覚しなければなりません。
できあがったリストを前に、今後の目標や夢を、前向きに描こうとします。
このリストはどう役立てるべきでしょうか?
リストに並べてある悪を、すべて克服しようとするなら、リストの長さに、うんざりしてしまうでしょう。

しかし、ここに実に力強いヒントがあります。著作には、そのリスト、おそらくは長いリストを見ながら、ただ一つか二つをとりあげなさい、と言ってくれています。その絞った一つか二つを克服しようと約束し、主の助けを求めます。遠ざけようとするのは、それだけの悪でかまいません。遠ざけることで、悪を克服することができます。リストの最初のものでなくともかまいません。そこで努力したとします。すると、ここで奇跡が起こります。リストにある残りの悪について、どうなるか?
私たちが一つに悪に取り組んでいると、主がひそかに、すべての悪に対して働かれるのです。
ペトロは、洗われると聞いて、手も頭もすべて洗ってくださいと願いました。主は、足だけを洗えば十分だと答えられます。私たちが、取り組もうとするのは、外に出ている一つか二つの悪でかまわないのです。それだけで、主は、残りの悪すべてを取り除かれます。やってみると明らかです。

最初は、リストに並んだ悪の多さに失望するかもしれません。
しかし、年の初めに、今年はある特定の一つの悪に取り組もう、と決心することで、地獄の力が他の分野でも弱まり、そして取り除かれてゆきます。なぜそうなるか?なぜ相手もしていない悪にも効果があるのでしょうか?
重ねて、悪を取り除かれるのは主お一人のみだと、強調しておきます。私たちは、主にそうしていただくようお願いします。愛する我が子の汚れを取り除く親のように、主は、慈愛深く悪を洗い清めます。
一見難しいことのようにみえますが、著作は思ったより簡単な方法を紹介しています。文字通り、たやすい方法と呼んでいます。
それは、ある特定の悪に対し、強い覚悟で、
「私はこの悪を考え、またそうしたいと思っている。しかし、これは主に対する罪だ。だから私は行わない」と、自分に言い聞かせることです。
この文句を記憶し、どんな時でも地獄の力に対抗するため、使おうと心に決めてください。
「私はこの悪を考え、またそうしたいと思っている。しかし、これは主に対する罪だ。だから私は行わない」。
この文句を使っても失敗することもあります。しかし何度も努力しているうちに、次第に悔い改めの習慣ができてきます。
怒りをとりあげてみます。たぶん何度も失敗して、怒ってしまいます。たとえこの文句を使ったとしても、失敗するでしょう。しかしあなたの内で密かな働きがあり、天界へ導かれていると信頼してください。

最後に別の観点からみてみます。自然には、真空を嫌うという性質があります。霊的ないのちについても同じことが言えます。悪が取り除かれると、そのかわりに何か別ものが流れ入ってきます。悪の変わりに、善が流れ込んできます。
こう考えてください。主は悪を取り除かれると、そのあと、天界から、そしてみことばから、心の中の真理に善を、流し込みます。そしてそのスペースを善で満たします。
これは何故、教会のもっとも大切なものが悔い改めであり、そして次に同じように大切なのが、隣人への愛から善を行うことであるかを教えています。

そのため、主は、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、洗い清めることから伝道を開始され、弟子の足を洗うことで伝道の終わりとされました。私たちすべての霊的な信仰生活も、洗礼の水によって始まり、その後すべてを通して主は私たちの足を洗い清められ、他人に対しても同じことをするようお命じになっています。この洗い清め、霊的な洗い清めを通じて、天界の喜びと平安の中へ入ってゆくことができます。 アーメン


タイトルWashing the Disciples Feet
説教者:Rt. Rev. Thomas L. Kline
場所:2004年1月11日 ブリン・アシン大聖堂
併読箇所:
イザヤ書1:12-20,ヨハネ福音書13:1-20.真のキリスト教532
訳者:松本士郎
朗読使用歴:2005年9月5日(東京グループ/東京・葛飾・シンフォニーヒルズ)