二つの網
ルイス・B・キング司教
「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4・26, マルコ 1・17)
主が私たちを救いにこの世に来られたとき、そのことを、もう一度みことばの真理を教ええられることでなされました。事実、主は肉とされたみことばとなられたのでした。
ご自分の一生で最初の三十年間、主はガリラヤのナザレで生活した、母マリアとヨセフとともに生活しました。三十歳のとき、主は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川に行かれ、そのときから、公に宣教を始められました。みことばが公に教えられることはガリラヤ湖のほとりで始ったのです。カペナウムの付近の漁村を、主はこの世の生活の最後の三年間を過ごすご自分の故郷とされました。
みことばをもう一度教えられる目的は、地上に真の教会を設立することでした。真の教会は地上に存在できるのは、みことばを通して主によって与えられる教えからだけです。主が人類を救いに地上に降りて来られた時、地上に真の教会はありませんでした。人類の救いはその方のみことばの新しい啓示によっていました。それで設立することができた新しい教会は、その方の名前にちなんで「キリスト教会」と呼ばれました。
さて、主は美しいガリラヤ湖の北西の位置に立たれました。主は、豊かな青い水を横切って、はるか離れた対岸の山や丘陵を見渡します。水が静かに岸辺の石や砂に打ち寄せています。主の背面には、どの丘陵にもきちんと耕されたブドウ畑や大麦、小麦の畑の超えた平野が広がっています。
主が岸辺に立たれ、初めて教え始められたとき、通行人が集まり、彼らはそこで聞いた主のみことばの美しさと知恵に魅了されました。小さな漁船が半分だけ岸に引き上げられていました。その中に、二人の漁師ペテロとアンデレがいました〔マルコ1:16〕。彼らは岸辺で、ずっと網を繕っていて、その網を舟に積み込もうとしていました。少し離れたところに別の釣り舟があり、やはり二人の漁師が網を繕い終わって、舟の後ろの部分に置いていました。彼らの名前はベゼタイの息子たちヤコブとヨハネでした〔マタイ1:19〕。
わずかの間、教えられてから、主はペテロの舟に乗り込まれ、湖に少しばかり乗り出せないかと彼らに求められた。すばらしい教えを聞いていた彼らは、主の申し出に喜んで従った。岸から少しばかり離れて、主は舟から教え続けられた。聴衆が増え始め、岸辺は聞く人たちでいっぱいだったからです。
さて、そのとき与えられよう思われた教えも終えられた主は、ペテロに、「今から、深いところへ行って、魚を取ろう」と言われます。ペテロは、「ご主人さま、私たちは一晩中、漁をしましたが、何も取れませんでした。この湖にはもう魚が残っていないのです」と答えます。それでも、彼らに、主が深いところへ行きたいと望んでいるとわかったので、その意向を汲んで、漕ぎだしました。
彼らが深いところまで漕いで来たとき、主は、「網を投げ入れなさい」と言われます。そのことばどおりにしたところ、すぐさま、網は魚でいっぱいになり、舟に引き上げられないほどでした。興奮して、彼らは他の舟のヤコブとヨハネに叫びます。「来て、魚を取るのを手伝ってくれ」。ヤコブとヨハネはすばやく主の座っておられる舟べりへ漕いでいき、ペテロとアンデレが網を引くのを手伝い始めました。
不運なことに、網は破れ、多くの魚が逃げてしまいした。しかし、両方の舟にいっぱいの、ほとんど沈みそうなくらいの十分な魚が得られました。
漁師たちは二つの舟を岸に着けて、この人の行なった奇跡に非常に驚ました。でも、その人がだれかは知りませんでした。
イエスは彼らに、「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。
その瞬間から、続く三年間、弟子たち、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁をしないで、昼も夜も、その方の説教を聞き、その方が奇跡を行なわれるのを見ながら、おそばにいました。
おわかりでしょうか。主はこの人たちを漁師から、弟子に、ご自分に従う者にすることを望まれたのです。彼らは真理を学び、盲目の者、足のなえた者、病人をいやすという主の行なわれた奇跡の証人となったことでしょう。主は彼らが短に弟子や従う者となるだけでなく、後には、主の設立された「新しい教会」の最初の牧師を委任する、すなわち彼らを使徒となるようにされたのです。彼らは主に従いました。主を愛しました。その教えと善き働きを愛しました。
最初に呼ばれた四人の漁師だけでなく、後から呼ばれた他の八人の弟子たちがどれほど悲しかったか想像できるでしょう――常に主といっしょに生活してきた三年後に、主が十字架上で亡くなられたとき、弟子たちがどれほど悲しかったか、あなたがたに想像できるでしょう。
また、イースターの朝に主が死からよみがえられ、多くの者に現われたとき、その十字架の受難を目撃した主の愛した女が、弟子たちが、すべての人々がどれほど嬉しかったか、想像できるでしょう。
今日読んだ「ヨハネ福音書」21章1節〜12節の物語は、主がご復活の後、天に上られる直前に、弟子たちに現われた最後の時を描いています。イースターの朝、主は最初にマグダラのマリアに現われ、それから他の女たちに、弟子たちに現われました。主はまた、イースターの午後、エマオに歩いて行く二人の弟子たちにも現われました〔ルカ 24:13〕。次の日曜日、主は再びエルサレムの家の二階に、閉ざされた扉を背にして、弟子たちのところに現われました。彼らは主の出現に元気づけられました、しかし、それから、主が見えなくなって、多くの日が過ぎました。彼らは再び主を見ることはなかったのでしょうか?
弟子たちのある者は、主を求める寂しさのあまり、エルサレムからガリラヤ湖へと旅しました。なぜなら、主は女たちに、「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」〔マタイ 28:10〕と言ったからです。
七人の弟子たち、ペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、それと他の二人は、みんなで、慣れ親しんだガリラヤ湖の岸辺に立っていました。一日中、岸辺に立ち、主がなされた奇跡をこの場所で、どれほど多く見てきたか思い出しながら、岸辺に沿って歩きました。彼らは愛と感謝をもって、非常に多くの人々が聞こうとして山に集まったときの美しい説教を思い出します。彼らは湖を見渡して目を東岸に向けます。そこは主とともに舟で二回ほど出かけた場所です。一度は、悪霊に取り付かれた人をいやしました。哀れな男の心から悪霊を追い出したのです。別の機会には、パンと魚を裂いて、五千人に給食されました、女と子供も同様です。二度ほど、弟子たちが主とガリラヤ湖でごいっしょのとき、大嵐が起こり、みんな溺れてしまう、と思ったときがあります。そのうちの一つは、主は舟のとも(船尾)で寝ておられました。主は起き上がり、海に静まるよう命じられました。もう一つは、弟子たちだけが舟の中にいて、嵐にあったときです。そのとき主が湖の上を自分たちのところに歩いてやって来ました。主が舟に足を踏み入れるやいなや、奇跡的に嵐は静まり、目的地に着きました。
彼らはこの三年間、主がペテロに、「湖に行って、魚をつかまえ、その口を開けなさい」と語られたときを除いて、漁をしていませんでした。ペテロはその命令に従い、主とペテロが払うのに必要な税金(宮の納入金)とちょうど同じ金額の硬貨を見つけたのでした〔マタイ17:28〕。
美しいガリラヤ湖を眺めているとき、それらのすばらしい思い出が、弟子たちの心に満ちていました。彼らは主が求めて寂しかったでしょう。ペテロは仲間に、「私は漁に行く」と言い、彼らも、「私たちもいっしょに行きましょう」と言いました〔ヨハネ 21:3〕。
その夜、湖に網には何もかかりませんでした。彼らはおそらく三年前の同じような夜のことを思い、語り合ったことでしょう。主が初めてやって来る直前に、彼らが一晩中漁をして、何もとれなかったときのことです。
夜が明けそめ、太陽が湖の東側の山の頂から上ろうとするとき、弟子たちは網を上げ、岸の方へ向かい始めます。彼らが湖の西岸を見ると、一人の男が立っています。それは主でしたが、彼らにはわかりません。イエスは彼らに、「子どもたちよ。何か食べ物を持っていますか?」と呼び掛けます。彼らは「何もありません」と答えます。イエスは、「舟の右側に網を投げなさい。魚が見つかるでしょう」と言われます。指示された通りに、舟の右側に網を下ろします。奇跡的にも網は魚でいっぱいになります。ヨハネはその奇跡を見て、「主です」と言います。ペテロは、裸だったので、漁師の上着を身にまとい、岸へ向かって泳ごうと湖に飛び込みます。他の弟子たちは、網いっぱいの魚を運ぶため、狂ったように、岸へと漕ぎます。つかまえた魚を数えると、大きな魚が百五十三匹あります。記録的な捕獲でしたが、網は破れませんでした。
弟子たちが舟から上がると、炭火が燃えていて、炭火の上で魚が料理してあり、パンもあるのを見ます。イエスは彼らに、「魚を幾匹か持ってきなさい、朝の食事をしなさい」言われました。
何と効果的な物語でしょう。主は、一晩中、何も魚をとれなかった漁師たちに現われ、それから、奇跡的に、彼らの網を魚で満たし、ご自分のもとへ、ご自分の働きをなすようにと呼ばれます。このすばらしい光景は、かつて主を見たこれらの弟子たちに最初に起こっています、そしてその同じ経験が、彼らが主を見た最後の時にも起こります。この物語の意味をどのように考えますか?
主のキリスト教会の最初の聖職者となった弟子たちにとって、網は真理への彼らの理解力を、またその真理を他人に教える能力を表象します。彼らは「人間をとる漁師」になりました。ちょうど彼らが魚をとるために、物質的な網を水に投げ入れたように、彼らは、主が彼らに与え、教え、集めるようにされた真理の知識をもって、力づくで、主のキリスト教会のメンバーの中に近づいたのです。弟子たちが魚をとれなかったのは夜です。夜は、主がおられなくて、私たちの考えや霊的な視力が暗いことを表象します。しかし、主が現在されるとき、それは朝であり、そこに光があります。そのとき、主の現在の中で、弟子たちは自分たちがとれる以上の魚をとり、岸へ引いてくるのです。そのように、弟子たちが、彼らの言葉や行ないの中に現われる主への愛をもって、主からの真理を教えるとき、彼らは主を礼拝しに教会に来る人々を、慰め、いやします。しかし、主が彼らの思いの中にないとき、彼らは成功しません。それは主のおられない夜の時のようです。
弟子が魚をとるというこの二つの物語の中には、いくつかの重要な違いがあります。最初の物語〔ルカ5章〕では、網は破れ、多くの魚が逃げてしまいました。弟子たちにとって、宣教することは、そのようなものでした。彼らの最初の努力は、ただ部分的に成功したのです。なぜなら、すべての善と、すべての真理は主おひとりからのものであると認めながら、常に現在される主の愛のもとに主から教えることの重要性をまだ学んでいなかったからです。
二番目の物語〔ヨハネ21章〕では、大量の魚をとったのに網は破れませんでした。彼らが主を認め、主から、主おひとりのために話すことを学んだ後の彼らの宣教は、そのようだったでしょう。二番目の物語には別の違いがあります。主は弟子たちに、舟の右側に網を投げ入れるよう語られました。右側は愛を表象します。真理を教えることの目的は、善良な生活へ導くこと、善と真理であるものを愛することです。愛からでなければ、善の目的のためでなければ、私たちは他人を教えることはできません。そのときそれは主の教えであり、主が現在されます。
さて、この奇跡的な漁獲についてのすばらしい二つの物語は、私たちのそれぞれの生活の中で、すばらしい意味をもっています。私たちの大部分の人は聖職者にはなりません、何人かはなるでしょう、しかしだれとともにでも、主はご自分の教会を設立しようと望まれています。真の教会は、主が現在されるときだけ、また私たちが集めるみことばからの真理だけから、主によって建設されます。私たちはみな弟子です、主に従う者たちです。美しいガリラヤ湖は、みことばの内部に隠されたすべての宝とともに、みことばを表象します。魚は、自然的な魚が私たちの自然的な肉体を養うように、水から引き出されて私たちの霊的な生活を養うことのできる真理を表象します。網は、主が私たちそれぞれに与えられた真理の理解力を表象します。私たちがみことばを読むとき、あるいはだれかが読むのを聞くとき、私たちは自分の理解力をみことばの中に沈め、真理を引き出します。それは霊的な漁に似ています。みことばを普通の本として見なすなら、主について思うこと、主の現在を感じることができなくなります。そのとき、私たちのそれぞれにとって時は夜のようです――弟子たちが漁をして何もとれなかった冷たくて空しい夜です。
しかし、主について考えるとき、主は私たちの心の中に現在され、そのとき、朝のようです。私たちは主が岸辺に立ち、ご自分のほうに引き寄せるかのように私たちに近づかれ、ご自分のみことばから真理を引き出すようにされます。真理は私たちを主へと引き寄せます。
最初に、私たちの理解力は、うぬぼれや利己的な動機によって妨げられています。私たちの網は、破け、とれたかもしれない多くの魚を失います。しかし私たちが、すべての善と真理は主からのものであると悟った後では、それは自分たちがもっと主に近づけるようにと変化することですが、そのとき私たちの網は強くなります。しかし、忘れないでください。私たちは網を舟の右側に投げ入れなくてはなりません、愛の側面です。これは、私たちは何よりも主を愛し、自分自身のように隣人を愛さなくてはならないことを意味します。そしてそのとき、私たちは真理を学び、そのほんとうの意味を知ることができます。イエスは言われました、「もしあなたがたがわたしのことばにとどまるなら、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。……わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。私自身を彼に現わします」〔ヨハネ 8:31,14:21〕
それで、私たちの霊的な網を主のみことばの真理の海に投げ入れましょう。主が見いだされるところで、主を求めましょう。主が近くにおられる間に、主を呼びましょう。すると、主は言われます、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。アーメン。
タイトル:Two Nets
説教者:Rt. Rev. Louis B. King
年月日・場所:2003年7月20日・大正セントラルホテル 会議室(東京・新宿区)
2003年11月2日・関西セミナーハウス アゴラホール(京都・左京区)
2003年11月9日・仙台市民会館 第4会議室(仙台市・青葉区)
併読箇所:ルカ福音書 5:1−11,ヨハネ福音書21:1-12
訳者:鈴木泰之