赦される罪と赦されない罪
L・B・キング主教
「もし人の罪を許すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人の罪を赦さなかったなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」 (マタイ福音書 6:14, 15)
罪の許しには何が必要なのでしょうか? だれが赦すことができるでしょうか? 赦されない不正があるのでしょうか? だれが赦されるべきでしょうか? だれが赦すべきでしょうか?
赦しについての主の教えに注意を向けるとき、多くの疑問が生じます。しかも、主の教えがなくては、創造における神の目的は達成されません。なぜなら、人類は全体としても、個人としても、天の御国に入る前に、再生しなくては、すなわち再び生まれなくてはならないからです。
■罪とは何か
主のみこころに反する言葉や行為、思考や情愛は、聖書からも明らかなように、悪です。悪は、それらが自由な意志から、故意に犯されるとき、主に対する罪となります。
主は、すべてのいのち、すべての善やすべての真理の源であられるので、人類がほんとうに罪を犯すことのできる唯一の対象は主です。主は私たちのだれにも、いのちを自分自身のものとして感じ、用いるようにと与えられているので、そのいのちは私たち自身の中から生じるように思えます。私たちの中から生じ、私たちに所属するという外観をともなった、この主からの流入は、いのちだけではなく、情愛にも存在します。善は天界を通して主から流入するからです。また地獄から悪への喜びが情愛に流入もします。なぜなら、主のいのちは私たちの意識の中に入ってくる前に、それらの情愛によって、ねじ曲げられ、妨げられもしているからです。私たちがみことばから学んで、それらを人格と呼ばれる私たちの価値体系に刻み込むことで、私たちのいのちの一部とする真理もまた、私たちの中から生じるように思えます。それで、その真理すら私たちのものと見なします。
すべてのいのちは、すべての善と真理は、私たちの中で生じ、私たち自身のものであるように思えるといった方法で私たちに流入するので、ここから、私たちは、他人が私たちを傷つけるか、彼らが私に対する責任を果たさないとき、私たちに対する罪を彼らに感じ始めます。そうして、私たちに対する他人の罪について話します。聖書で、少なくとも230箇所で、私たちに対する罪や咎を赦すようにと警告されているにもかかわらず、そうしてしまいます。ほんとうは、他人が私たちを傷つけ、責任を果たさないとき、彼らは主に対して罪を犯しているのです。私たちは彼らの罪によって傷つくかもしれませんが、しかし、ほんとうは彼らが主に対して罪を犯していることを忘れてはなりません。このことは、彼らに対する赦しの精神を抱くことの助けとなるはずです。そして実際に、それは主が再生を通して彼らを変えることによって、彼らを赦されるようにという願いです。
許しの精神を抱くことは、私たちの心が主の流入へ向けて開かれ、主が私たちを赦してくださることです。また、故意に私たちを傷つける者を含めて、他人が主に対して罪を犯すとき、私たちが彼らを助ける主の御腕にある道具となることでもあります。
私たちに他人の罪を赦すことができるでしょうか? ほんとうはできません!
■罪を赦すことができるのは主おひとりです
罪の赦しは、地獄から流入してくる悪の力を、そこに天界からの善と真理を満たして、人間から遠ざけるしくみです。このことは、人が地獄による攻撃にさらされるとき、悪を認めて、地獄と立ち向かい、試練の源が地獄にあると見定めて、悪を主に対する罪であるとして避けるとき、主おひとりよって成し遂げられます。この人間の側の反応が悔い改めです。
人が悔い改めるとすぐに、主は現在され、その人の思考と関心の中心から悪を移動させ、霊的な状態または場所に、喜びと平和、正しいもの、善と真理を注ぎ込みます。主だけがこのことを行なえます、世で地獄に立ち向かい、その力に勝利されたのは主おひとりだからです。地獄とその悪いたくらみを拒否されることで、主は地獄に勝利する力を得られましたが、その力だけが全能であり、永遠に続く力と呼ぶことができます。「著作」には、これまで主だけが地獄の力に勝利され、再びこれをおできになること、また、悪を主に対する罪として避け、主の愛と知恵の偉大な力を信じることによって、主が叩く戸を開ける者のそれぞれの人生でも、地獄の力に勝利されるようにされることが説明されています。(『天界の秘義』9937)
天界は、主への愛と隣人に対する相互愛によって、一人の人間の形として互いに連結していますが、そのように、地獄は、自己愛と世俗愛から相互支援でネットワークを形成し、一つの怪物の形へと結び付いています。私たちの固有の情愛を、悪と虚偽へとかき立て、ある時に私たちを攻撃できるのは、地獄からの二、三人の悪魔に支援された、たった二、三人の悪霊です。それが事実です。しかし彼らの攻撃は、全地獄の力によって支援されたものであり、だれもがその地獄の力に立ち向かい、退けることはできません。
悪と虚偽へと向かう私たちの遺伝と獲得した傾向によって――私たちのプロプリウムはこうしたものです――地獄は再生前の大部分の時間、私たちを支配します。しかし、主は、世でのご生涯のうちに地獄に勝利されて得た偉大な力ともに、常に私たちとともにあり、決して私たちを放置されませんし、私たちそれぞれの霊的な利益のための、その方の愛は変わりません。私たちの霊的ないのちの中に入って来られ、地獄の力を遠ざけ、私たちを天界の御国の平和と喜びへと高められます。
天界の存在は、主の現在と主の善と真理の力によって保たれます。地獄は主の現在を遠ざける以外の何ものでもありませんが、そのことは地獄の力が流入し、それが私たちの思考と情愛を占拠するほど、生じます。
そこで忘れてはならない重要なことは、だれもが、地獄と立ち向かい、自分のまた他人のいのちから、その地獄の力を除くことができないことです。これをできるのは主だけです(『天界の秘義』9937参照)。主おひとりが、私たちや他人の中の罪をお赦しになることができます。ではなぜ、私たちは、聖書の少なくとも230箇所で、他人の罪や咎を赦すようにと勧告されているのでしょうか? 霊的に私たちに必要なものがすべて含まれ、述べられている主の祈りで、私たちがしなくはならないただ一つのこと、すなわち、「私たちもまた私たちに負いめある人を赦しましたように、私たちの負いめを赦してください」と言われているのはなぜでしょうか?
■人間は赦され、赦さなければならない
主が私たちのそれぞれ一人ひとりを赦すことなしに、私たちの悪は私たちの周辺から離れることはできませんし、また新しい意志、新しいプロプリウムは霊的な場所に創造されることはできません。私たちには、悔い改め、主を認める能力と責任があります。悪とその悪が地獄からのものであると見定め、ご自分の力を信じさせ、悪を私たちから移動させ、転換させ、そこに善と真理を置き換えて、またそのとき、あたかも自分自身のものであるように善と真理を流入させようと尽力される主を認めます。しかも、これは私たちを手段として主おひとりによってできることであると悟らせてくださいます(『真のキリスト教』3。『簡単な解説』117, 43, 44。『結婚愛』82, 525:3, 340:3参照)。
私たちが悔い改めるとき、主は罪を許されます。それで主は弟子たちに、福音を宣教するよう教えられ、罪の許しのために実際の悔い改めへと導かれました。許すことは移すこと、送り戻すことです。私たちが愛し、勝手気ままに行なった不正行為は、私たちの記憶に永久に刻み込まれます、それですっかり洗い流せるものでは決してありません。しかし、それらは、主によって私たちの意識の周辺から移動し、善で真なるものを喜ぶという、永遠に、常に増大する喜びによって置き換えられます。そのように、地獄は移動し、私たちのそれぞれのもとに天界が設立されるのです。
主は人類をあがない、ご自分の人間性を栄化される、という二つのことを世にもたらされたことを思い出してください! あがないによって、主は、均衡を回復し、ご自分の教会を設立する真理を教えられるために天界を取り戻され、地獄に勝利する永遠の力を得られました。ご自分の人間性を栄化されたので、主は偉大な力を維持され、私たちの永遠のあがない主となられました。主は、悔い改めて、それぞれの個人に対する主のあがないの働きを信じる者に、これら神のなされたすべてのことを、その個人のいのちの中へもたらされます。
主の許しなしに、私たちは地獄の支配を拒むことも、天界の永遠の楽しみを受けることもできません。
主の赦しの力と効果を、私たちのいのちにもたらすため、私たちは他人に対する許しの精神を心に抱かなければなりません。流入は受け入れる容器の状態に従います。もし私たちの心が他人を赦すことに向けて開かれていないなら、それに比例して、私たちに主の赦しは閉ざされます。流入は流出に順応します、これは神の秩序の法則です。それで、私たちに対する主の赦しは、もっぱら私たちが赦しの精神をもって他人と接触することに比例して流れ込むのです。
地獄の最大の喜びは、人間に、お互いに対する不寛容の精神を流入することです。このような方法で、地獄は主へ向かう人間の心と思いを閉ざし、自己中心的な考えと世俗的な野心で彼の情愛を支配します。しかし、主の助けがあるとき、私たちは赦しをもって他人を見るようにと自己強制します。主が私たちを赦されることを考慮してのみ、そうするのではなく、私たちを傷つける者のもとにある悪を除くことを促進させる主の御手にある道具として、実際に、私たちが用いられるのです。それで、他人への赦しの精神を養うことは、私たちが赦されることを可能にするだけでなく、私たちは、私たちを傷つける者のもとの悪を除去するための主の御手の中にある道具となります。
いのちは、それを私たち自身のものとして受け取るといった方法で流入するので、悪が流入するとき、私たちには、その悪の所有者となる、その悪を自己と同一のものとしてしまう傾向があります。これこそ地獄の欲することです。地獄は、私たちの隣人に、仕返しの言葉を実際に言い、そのことを行なうよう、私たちを刺激することはできないかもしれません。しかし、地獄は私たちの自己憐憫の意識と、私たちを傷つける者たちに対する怒りを高め、そしてついには、私たちに、悪そのものの所有者であり、私たちと悪を同一視することを確信させます。そうして、私たちの自己価値観をむしばみ、私たちが自己敗北の犠牲になり、落胆するよう、しむけます。
地獄が私たちの思考と情愛を悪へと刺激するとき、悪い言葉や悪い行ないへと導かれるかもしれないし、導かれないかもしれませんが、私たちは地獄に抱かれ、取り囲まれています。もし、これらの不正な思考や情愛に喜びを感じるなら、逆に、私たちが地獄を抱き、結合の状態や相互の包囲をもたらします。
それで、悪の喜びを密かに抱きながら、単に地獄に外面的に従うことを拒むだけでは十分ではありません。私たちを傷つける者が悔い改めないで、他人を傷つけ続けることによって罰せられるのを密かに望みながら、彼らに報復することを差し控えるのは、赦しの精神ではありません。
私たちにとってのほんとうの赦しは、主が他人の中の悪を遠ざけ、彼らの生活が変わるよう望むことです。主は、公の宣教を始められたとき、次の言葉で、その例を私たちに与えられています、「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」(マタイ5:7)。また主は、十字架の上で、公の宣教を、次の言葉で締め括られました、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないからです」(ルカ23:34)。主は弟子たちに語られました、「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。もし悔い改めるなら、赦しなさい。そしてもし彼があなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』といって七度あなたのところに戻って来るなら、彼を赦しなさい」(ルカ17:3−4)。
ある機会に、ペテロは主に質問しました、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯し、私が赦すのは何度まででしょうか? 七度ですか?」 イエスは答えられました、「わたしは七度とは言いません。七度の七十倍です」(マタイ18;21,22)。
さらにイエスはご自分に従ってくる者たちに言われました、「古い時代から『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われてきたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。あなたを憎む者のために善を行ないなさい。あなたを侮辱し、あなたを迫害する者のために祈りなさい。そのとき、あなたがたは天の父の子どもになります」(マタイ5:44、ルカ6:27, 35)
限りない赦しの精神をもって私たちの仲間を見るように、と主は私たちに勧告されています。それは、このようにしてだけ、私たちを赦いてくださる主に向けて私たちの心と思いが開かれ、他人から悪を取り除く道具として、主が私たちを用いてくださるからです。私たちを用いることと、他人を赦す精神の重要性に関連して、「もしあなたがたが彼らを赦さないなら、彼らは赦されることができない」と言われているのです。
ときどき困難とも思えるこれらの教えは、ほんとうの赦しは主によってのみ成し遂げられる、という知識の光の中でのみ理解できます。なぜなら、ほんとうの赦しは、悪の除去と、その場所に善で真であるものを満たすことを含むからです。これは再生の過程です。人類は、悔い改めることができますし、そうしなければなりません、しかし主おひとりが人間の心の知的な中身を、自己や世よりも役立ちを目指すようにと改造されます。また主だけが、人間の中に新しい意志と新しいプロプリウムを造って、再生させることができます。その意志やプロプリウムが霊的な再生を構成します。
他人が私たちを傷つけるとき、彼らは私たちにではなく、主に対して罪を犯していると覚えておきましょう。私たちと同じように、彼らは主の助けを必要としています。私たちは心を尽くして、霊を尽くして、主が彼らを変えてくださるよう祈るべきです。
七度の七十倍ということは、私たちにつけこんで悪習を続ける者たちに、私たちが服従しなくてはならないことを意味するのではありません。それは、お互いのなれあいを意味するのではありません。そこでは、悪習者は私たちの生活を制限し、私たちは悪習の存在とそれを生き残すことに慣れてしまいます。もし、私たちがほんとうの赦しの精神を持つなら、私たちは、主がその人を変えてくださるよう望むでしょう。それは、最小限、彼が私たち悪習の標的としないように、関係当局に報告することで、私たちからその人物を遠ざけることかもしれません。
直接に、また人類を通して間接的に地獄と戦われる主は、決して絶対的な真理を傷つけられません。主は決して不正行為を容赦されませんし、悪を犯すときそこに本来そなわっている罪を気ままに赦すことはなさいません。主は決して、ご自分を拒否される者を、怒り、自己憐憫、憤りで見られません。一貫して、また無限の愛から、主は、ご自分が創造された者すべてと接触され、抱こう、悪から遠ざけようとされ、ご自分の現在のうちにとどめようとされています。どのようにしたら、主の模範に従うことができるでしょうか? 私たちの人生で、私たちの才能と責任にしたがって、他人――私たちを傷つけ、非難する者ですら――その進歩や福祉、ついには幸福を願うことです。
■主が赦されないような恐ろしい罪があるでしょうか?
「人の子に逆らって話すことは赦されます。しかし聖霊に逆らって話すことは、この世でもまた来たるべき世でも赦されません」(マタイ12:31, 32)
赦されることのできないような聖霊に逆らう罪とは何でしょうか? しばしば、結婚の尊厳と純潔への愛は、私たちにとって重要なものに感じられ、私たちは故意の姦淫を赦されない罪とみなします。教会の内外で容認されている結婚制度を観察するとき、姦淫以外の他の理由のために、離婚することは赦されない罪のような気がします。また、小さな子どもの無垢は私たちの愛を感動させるものであり、その無垢に対する性的な、また肉体的な虐待は非常に恐ろしいものであり、それは確かに赦されない罪であると思う時があります。軽いものでは、私たちの礼拝形式を変更したり、みことばの新しい訳を用いたりするとき、これを伝統に反すると見なして、私たちは非常に怒り、憤慨し、そこには赦されない罪があるとします。それでも、そこにほんとうの悔い改めがあるなら、主はこれらすべてをお赦しになられると私たちは知っています。
主だけがほんとうに成し遂げられることのできる赦しは、悪の除去と善と真理であるものを植え付けることであったことを思い出してください。しかし、私たち各々の中の何がこの許しの過程を妨げているのでしょうか? それは他人を赦そうと望んではいませんか? 善と真理は私たち自身のものであるという外観を確認しようとし、また、私たちを傷つける者は、主でなくて私たちに対する罪があるとする、不寛容の精神も持っていませんか? 他人に対する怒りと報復的な感情を正当化していませんか? 主とその方の助けを否定し、少しずつ、自己正当化していませんか?
「著作」には、赦されない罪が明白に定められています。人がかつて真理を愛し、それを自分の生活の一部とした後で、その真理の霊に逆らって語るとき、彼は以前に愛し、また崇拝した主を拒否しており、それで心の内部を完全に破壊する冒涜を犯すことになります(『天界の秘義』9, 818:27)。
私たちが実際に行なった悪と虚偽は、私たちのうちにとどまります。しかし、主による再生に逆らっていても、そのとき、私たちは悪を強く抑制され、主の善と真理の中に堅くとどめられます(『天界の秘義』865, 866(★1))。神は、人間が悪をやめ、悔い改めるとき、罪を赦し、遠ざけられます(『真のキリスト教』142(★2))。「悪から清められることは罪の許しである」(『真のキリスト教』142)。「悔い改めは赦しに先行する。そして悔い改めなしに許しはない」(『神の摂理』280)。
人間が悪を罪として避け、悔い改め、主が人間の心の中心から悪を遠ざけられときの言葉として「赦し」(★3)が用いられているのは興味深いことです。赦し[鎮静](★3)は、しばしば「がん」に関連して用いられる言葉です。人間の繊維組織への攻撃を一時的にやめさせ、一定の間、肉体に健康と取り戻させます。実際、不寛容の精神は「がん」に似ており、それは無垢の繊維組織を引き裂きます。くすぶる火のように燃えて、人間の心の内部を破壊する結果となります。不寛容の精神は、主の現在を、慈悲からの赦しをその者の中から締め出します。不寛容の精神は、内部のプロプリウムからの報復と憎しみで燃えて、自分を傷つける者に対する怒りを正当化しようとします。詩篇作者はそれを、「人の心の無慈悲な破壊者」(★4)と呼びました。そして、それはまさしく、人生の中で早期に地獄によって取り付けられ、一生の間、忠実に仕えると保証された、自己破壊の仕組みです。
不寛容の精神は、私たちの内部で主の再生の働きを締め出すだけでなく、自己欺瞞と自己正当化の毒を増します。それは、主を内的に受け入れること、以前、生活にあてはめたその方の真理を信頼することの破滅を導きます。それは、赦されない罪と呼ばれる聖霊への冒涜を生み出します。それが赦されないのは、主の現在から、愛の力から人類を締め出すからです。それは主の側に赦しが不足しているのではありません。
不寛容の精神が赦されない罪である、と「著作」に直接に教えられているのではありません。しかし三つの聖書(★5)のすべては、そのことが、以前に愛され、人間の内的な情愛の一部となっていた主の神的な真理が最終的には否定へ導かれてしまう、最初の段階であることを宣言しています。
■結 論
主だけが罪を赦すことがおできになります、なぜなら、赦すことは人間から悪と虚偽を移し、その思いと心に、善と真理を満たす過程だからです。私たちの生活で起こるこの過程に私たちは依存しているので、主が私たちを再生してくださることを願うときに、私たちは、他人への不寛容の精神を養うことによって、その過程を閉ざし、主を締め出し、ついには主を否定し、私たちが以前に愛した善と真理を冒涜してはなりません。
最後に、姦淫の現場を捕らえられた女のことを考えてみましょう。彼女を訴えた者たちは、彼女を主のところへ連れてきて、主を試みて、モーセの律法にしたがって、彼女を石打ちにするべきか、問いました。主はついに答えられました、「罪のない者が最初に石を投げなさい」。彼女の罪から自分自身の不寛容の精神へ焦点を当てられて、彼らは、地獄がそうするように、すごすごと引き返しました。年長者から始めて、一人また一人と去りました。「女よ。あなたを訴えた者たちはどこにいるのですか。あなたを罪に定めた者はいないのですか?」 彼女は、「主よ。だれもいません」と答えました。「それでは、わたしもあなたを罪に定めません。行きなさい。もう罪を犯してはなりません」と神的な慈悲そのものであられる方が宣告されました。このたとえ話からは、許しの精神を養うことが重要であると理解できませか? このとき、私たちは、主がご自分の人間性を神的な愛へと変えられる直前のことばを思い出すことでしょう――「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないからです」。アーメン
[訳注]
★1 この番号は何かの間違いと思えます。『秘義』789番や9334番以降が参考になります。 戻る
★2 そこの意味を汲んだ文です。 戻る
★3 赦し(remission )には[痛みなどが]薄らぐこと、鎮静の意味があります。 戻る
★4 詩篇にこの表現“The merciless destroyer of
the souls of men.”は見当たりません。戻る
★5 旧約・新約の両聖書とスヴェーデンボリの神学著作です。 戻る
タイトル:Sins: Forgivable and Non-Forgivable
説教者:The Rt. Rev. Louis B. King
場所:***
併読箇所:***
訳者:鈴木泰之
朗読使用歴:2002年10月27日 「東京集会2002」(文京シビックホール/東京・文京区)