みことばの霊的な意味を知ることはなぜ重要なのか
さもないと
聖書は文字どおり恐ろしくて当惑する本となってしまう
マイケル・グラディシュ牧師
「そこで民はひとり残らず、まっすぐ町(エリコ)へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した」 (ヨシュア記 6:20-21)
これは「旧約聖書」の「ヨシュア記」からの短かな部分です。これは聖書全体を通して多くの方法で述べられている恐ろしくて、残酷な、ときには嫌悪すら感じる個所からすれば、やや穏やかな例です。そして問題は、それらが論じられているだけではなく、それらがしばしば、善いこと、必要であること、神のみこころを満たしているとして祝われることです。
これは大量虐殺と荒廃の古典的な例です。戦闘で戦った者だけでなく、女や子どもも容赦なく殺され、その町のあらゆる役立つものも廃棄されました。しかし、悪く、もっと悪くなります。その書の少し後で、アカンという名前の男が、エリコの町から断罪した物品を取り、それらを自分の天幕の中に隠したことで、主に対して罪を犯したことが見つかりました。その結果、彼が死へと石打ちにされただけでなく、彼の息子や娘も、牛、ろば、羊も、その天幕ですら、すべてのものは死へと石打ちにされ、火で焼かれました(7:25)。これは同じような多くの聖絶物語のほんの一例です。
それから、詩篇137編には「バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。おまえの子どもたちを捕え、岩に打ち付ける人は、なんと幸いなことよ」〔137:8〕という復讐の形として最も残酷なものを思わせる有名な個所があります。この場合、主がその感情を是認されているのではなく、主への祈りとして記録されています、それでも、少なくともそこの文脈で、主は〔その感情を〕静められてはいません。
もちろん、聖書の他の個所には、そうした傾向を制限する非常に多くものがあります。例えば、預言者イザヤは、主の御名によって人々に悔い改めを呼び起こす伝統的な祝祭や動物を犠牲とすることをすべてきびしく断罪しています――「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ」(イザヤ1:16-17)などです。ミカも同じく結論しています「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主はあなたに何を求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)。
しかし、旧約聖書が復讐、流血、いわれのない性、その多くは神によって保証され、命令されたとまでしている事実は残ります。例えば、神ご自身が、人類に対して非常に怒られ、ノアの箱舟に残す数少ない動物を除いて、あらゆる生き物を滅ぼす、と言われています。これはノアに関するかぎり偉大な物語ですが、しかし他のすべての者についてはどうでしょうか?
一夫多妻者だったヤコブは、相続に関して一度ならず二度まで兄エソウをだまし、それで十分満足していますし、そのことで神は彼を祝福され、栄えさせもしています!
ヨシュアは、行くところどこでも大破壊の怒りをぶちまけ、士師たちは、非情で、しばしば残忍でしたし、〔列王記に登場する〕王たちのほとんど全部が、残酷で暴力的であり、エリヤのような初期の預言者たちですら、主の御名によって全部の人々を一掃しようとしました。さらに「創世記」のシェケムとディナ〔創世記第34章〕、ソドムとゴモラ〔18章〕のような恐ろしい出来事までここで話題にしようとは思いません。
要するに、これらすべての物語は、霊的な意味の深い理解がなければ、文字上では、卑しくて矛盾する「教訓」の海に沈んでしまい、神を怒りとねたみと復讐心のある人物像として描く一方で、同時に、信じられないような曲解を許容することになります。これらすべてが、多くの人々に、自分たちの生活にとって、この書物を憎むべきものが十分以上にあり、我慢のならないものとして退ける気を起こさせるのは確実です。
さて、わかりやすい話をしましょう、興奮することもなく、明白で、気楽な話です。『神は妄想』また『神は偉大ではない:どれほど宗教があらゆるものをだめにしているか』といった分析をしている現在人気のあるこの類の本を読むかもしれません。そうした本の著者たちが、まったく公平でなく、明らかに軸がずれているのは真実であり、その一方で、もしあなたがたが聖書に対して直解主義〔文字通りに受けとめること〕の立場をとろうとするなら、彼らはまた、あなたがたが聖書から多くの助けを得ようとしないよう訂正します。実際、もしあなたがたが聖書にそうした信念を抱くなら、あなたがたは、神を、厳格で、きびしく、相対的に容赦のない「父」(エホバ)と、忍耐強く、慈悲深くて親切な、愛すべき「子」(イエス・キリスト)という、「二つ」の分離した、両立しない要素をもつ人格として見てしまうようになることはほとんど避けられそうもありません。しかも、イエスですら、その要求ではかなり厳格であり、またその裁きではきびしいものがあります(例:マタイ10:34-39、23章など)。
では正解は? 聖書に言われていることを、割引したり、軽蔑したりするだけでは答えになりません。答えは、書かれていることが、意味があり、神の概念を真に伝達するような、理性的で、首尾一貫した、人間の先入観から解放された解釈の方法を見いだすことです。このことを行なう、ただ二つの基本的な方法があるように思えます。一つは、聖書はすべて、その著者の有限で誤りを免れない知覚にもとづいて書かれていることを考慮して、私たちはそこに言われていることを加減して受け取らなくてはならない、というものです。もう一つは、もとの物語を越えて、ものを見通すことができ、(・・・略)個人的に適用できるものを引き出すために、語られている多くのものの内部に――どれほどそれが歴史的なものに見えても――私たちは隠喩的な、霊的な意味を見いださなくてはならないというものです。
最初の選択肢は、聖書を基本的に人間の、誤りを免れないものとし、私たち自身の創意工夫へと導くことになるので、私たちは二番目の接近法を好みます。しかし、そのときですら、私たちには二つの選択肢があります――私たちはあらゆることを私たち自身の知覚にしたがって解釈することができます(実際には、私たちがまさに退けたものの単なる一つの変化形です)。または、私たちは、内的に首尾一貫した、究極的な神的な解釈のために、「聖書を探求すること」自体をその「かぎ」とすることができます。この方法を私たちは実際に「新教会」の教えの中に持っています。
それは「対応の知識(科学)」と呼ばれます。この枠組み(またはパラダイム)の中で、あらゆる文字上の出来事や事物は、それに「対応する」ある霊的なもののイメージとなります。またそれは似たものや、類似のように、表象によって、自然的な水準での役立ちや機能を霊的な水準での同じものと対応させます。
例えば、水は真理に対応します。自然的な生活で水が私たちのために果たすことを、真理は霊的な生活で行ないます。しかし、水が破壊的な力となるとき、それは曲解された真理に、すなわち虚偽に対応します。それで、創造の物語で、水に言及しているすべてのものから、私たちは真理を連想します。そして、真理は、「創造」の中で、すなわち、私たちの霊的ないのちが発達する上で非常に重要なものです。しかし、ノアと箱舟の物語では、水からは虚偽の洪水を思い浮かべます。そして、もし私たちが、私たちを再起させ、「解放する」、適切に建設された思考の枠組みへと避難しないなら、その洪水は私たちを滅ぼします。
新旧約両聖書の最も困難で挑戦的な物語のすべては、こうしたものなのです。東洋に近かった古代人たちが復讐的であり、彼らが自分たち自身の知覚にしたがって神を描いたのは事実です。しかし、肝要なのはそれらの物語の内部です。彼らは神的な霊感を受けていたので、そこには霊的な意味があります。それは霊的なレベルで、私たち自身のいのちにとっても、すばらしいものであり、教育的です。
それで「ノアの物語」と箱舟。これは実際に、神の失敗と、不可能な寸法の舟に一家族とすべての生き物のそれぞれの種類を少し残して、全地を復讐的に断罪することではありません。それはむしろ、まさに述べられているように、消耗し尽くすような虚偽の洪水に直面したとき、善を回復し、思考と情愛を清めて、私たちを救おうとされる主のご計画なのです。そのご計画とは何でしょうか? ある木材で、ある寸法で、三階建てにし、ある場所に窓をつけ、ピッチでおおい・・・・・・このように箱舟を建造します。これは何を意味するのでしょうか? それはすべて、みことばから教えられることの学習、その理解、それを信じて、私たちの霊的ないのちがどのように保護されるか、を示しています。箱舟の部屋は意志や理解力という人間の能力に対応します。三階建てだったことは、心の三つの(自然的、霊的、天的な)段階に対応します。窓は、それを通して光がやって来る知性に、扉を聞くことは従順に対応します、その他も同様です。確かに、その物語では地上の大部分の生き物は死にました、しかし、文字どおりの意味で死について語っているのではありません。それは、私たち自身の世俗的な態度の拒絶と改革、みことばの教えに従うときの、さらに霊的な善と真理による私たちの心の「再殖民」です。
また、「ヨシュアによるカナンの征服」。これは、そこの土着の人々すべてを征服し、絶滅させることを意図しています。これは、私たちみんなが持っている私たち自身の遺伝による悪と虚偽への傾向に打ち勝つ必要があることに対応しています。私たちの未だ再生していない心の土地に「住み着いている」ものが利己的で、物質的な思考と情愛です。そしてそれらは、もちろん根絶され、もっと霊的な思考と情愛に置き換えられなくてはなりません。その霊的なものがイスラエル人によって表象されたのです。イスラエル人のほうがが土着の人々よりも霊的であったというのではありませんが、しかし彼らによって表象しされたのです。
「アカン」とエリコからとって彼が自分自身のものとした略奪物について。彼の名前はヘブル語で「困惑〔アーカール:悩ます者〕」を意味します、それで、彼は表象する困惑とは、主の道よりも私たちの道を行こうとする私たち自身の欲望です、特にそれらを滅ぼせとの主の命令にもかかわらず、私たちが〔自分勝手に〕役立つだろうとみなす間違った考えと利己的な態度に潜むものです。なぜなら、エリコはその堂々とした城壁とともに、もし私たちが霊的な生活に入るべきものなら、まさに最初に征服しなければならない、私たちが守ってきた最も外的な悪と虚偽を表象するからです。私たちがそれらを攻撃し、征服しようとするとき、主のやりかたよりも、私たち自身のやりかたで、私たちは勝利できると考えて、自分自身に信頼を置くなら、私たちは後で大きな失望に直面することになります。
それから「詩篇137編」のバビロンの子どもたちを岩に打ちつけることについて。ここで述べられていることは子どもたちを文字通り殺すこと(それでも、疑いもなく、詩篇作者はそのことを意味しています)ではなく、「バビロンの子どもたち」によって表象される、無垢のように見える支配愛の悪を、すなわち他人を支配しようとする悪を除くことです。「ちょっとした罪のない(方便の)うそ」、それが他のうそを招き、ついにまったく正直でなくなってしまうことを知っていますね〔「うそは泥棒の始まり」と言います〕。もしあなたがたが最も単純な悪を、特に無垢に見える悪――特に軽蔑など――を許し、大目に見るなら、次にあなたがたは、それが成長し、あなたがたにあらゆる種類の悲惨さをひき起すのを知ることになります。「つぼみのうちに摘み取ってしまう」ならどれほどよいでしょう、すなわちその物語の霊的な意味は、真理の岩に打ちつけて、こなごなにしてしまうことです。
さて、もちろん、私たちは、私たち自身の中の自己本位、誤解、腐敗行為のすべてを一度に根絶することはできません。また私たちの行なうあらゆる小さな悪事にのみ込まれていること感じることができません。しかし肝心なのは、それはなぜ悪いことなのか認め、それをみことばからの主の教えにしたがって、できるだけ有効なものになるよう扱わなくてはならないことです。再生は、すなわち霊的な成長は、出来事ではなくて、生涯の過程です(・・・略)。
そこでさらに「士師記」と「列王記」。それらは、原始的な法規、排他的な戦闘、残酷な裁きの感傷的な歴史ではありません。そこに私たちは、私たちが真理を学び、それから、それを適用しようと努力して行ったり来たりして気迷うような私たち自身の霊的な生活に関係する主の神的な摂理の統治を読み取ります。
最後に、「ヤコブとエサウ」の物語〔創世記第25, 27章〕。霊的ないのちで、出し抜くために、あなたがたは、兄弟〔教会の仲間〕をあざむいていませんか? もちろん、していませんね――ヤコブがしたように、世間では、あなたがたが出し抜くことがあったにしても。この物語の要点は、ヤコブが知性を、エソウが自然的な心の情愛を表象していることです。すなわち、現代心理学の用語で、ヤコブは心の認識(認知)、エソウは情緒(感情)です。さて、私たちはみな、二つの能力をもって、すなわち理解力と意志の二つをもって生まれています。しかし意志は始めから――私たちは「古くからの、生まれながらの」意志と呼びます――腐敗し、根本から自己中心的です。それで、新しいものへと、改善された意志へと、変えられなければなりません。そのことは、私たちが好もうと好むまいと、ただ真理を学び、理解し、それにしたがって生活するという修養を通してだけできることです。このためには、知性の心がリードしなければなりません、非常に傷つけることがあり、不公平に見える方法であってもそうするのです。
このことは別のときにもっと説明する機会があるでしょう。基本的には、いわば意志を脇に退け、理解力が単純に肩代わりをするということです。良心により、また他の外部からの圧力により、私たちはほんとうは好きでないことを、しなければならないからと、行なうよう強制されます。すなわち私たちはしなければならないことを知っており、そのとき楽しみたい事柄は、少なくともしばらくの間、二の次にします。ある取引や技術、職業に精通しようとするようなものです。そのとき、あなたがたは最初に学校へ行かなくてはなりません、そして、あなたがたがほんとうに愛に基いて自由に行動し、何か成功したいものを、ほんとうの満足をもって行なう前に、おそらく多くの学問的なものを通して、骨の折れる道を行かなくてはなりません。
以上のものはみな、もし私たちが、みことばから何かほんとうに意味のあるものを汲み取ろうとするなら、その霊的な意味を理解することが決定的に必要であることを明らかにするために取り上げた旧約聖書からの何百のも例証のうちのほんの少しのものです。同じものは新約聖書にもあります! 例えば、イエスは、「目には目で、歯には歯で」と説教しないで、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。・・・もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい」〔マタイ5:29, 30〕と言われていませんか。もしこれらが私たちの霊的ないのちの何らかの様相に言及していないのなら、これらの事柄は何を意味することができるでしょうか? しかし、それらはまさにそうなのです――悪い理解力と行為への悪い意図に言及しています。
さてそれでは、これらの知識すべてをどうすべきでしょうか? 簡単です――読みなさい。みことばの物語を読み、それらの含むさらに深い意味の知識と対応を通して吟味しなさい。みことばは対応によってできており、その対応によって、読者は内的に、天界の天使たちと主ご自身と実際につながります、主は、その中で愛と知恵のすべてを、私たちの心と精神に啓示してくださいます。
みことばを、あなたがたがすでに知っている対応にしたがって、それらを理解しようとする真の願いをもって、読み、熟考しましょう。またそれらを天界の教えにしたがって読みましょう、そこからあなたがたはさらに、単に霊的な意味だけでなく、みことばに埋め込まれた概念を含まれる把握するのに必要な心理学的で霊的な原理を学ぶでしょう。
要約すれば、そこに書かれていることについて、規則正しい瞑想を通して、最初に参照するための明確な枠組みを確立させることをしないで、生活上のある特別な問題を解決しようとして、読むことをしてはなりません。あなたがたは、あらゆる種類の妙な結論に到達してしまうでしょう。みことばについて、単にその表面を見て、聞くのでなく、あなたがたは規則正しい基盤にもとづいて瞑想する習慣から、主がほんとうにそこで言われていること味わうようにしましょう。
そのとき、あなたがたがある特別な問題をかかえているとき、主はあなたがたにあなたがたが理解する言葉で語り、助け、支えられることがおできになり、主はあなたがたに、あなたがたの世界について――あなたがたの希望、苦しみ、喜び、失望――霊界への準備としての全般的にあなたがたの生活上の全部の経験について、その意味を汲み取るのに必要な特別な洞察を与えられます。
そのとき、今日の朗誦のことば(詩篇119:33-40)は真実となります。ませなら、主は、私たちが「主の仰せの道を踏み行くこと」ができ、そうすることがほんとうの喜びとなることを、私たちに教えてくださり、それを理解させてくださるからです。アーメン。
タイトル:Why it is So Important to Know the Spiritual Sense of the Word or The
Bible: Literally a Dreadful and Disturbing Book
説教者:Rev. Michel Gladish
場所:***
併読箇所:詩篇 78:1-8, ヨハネ福音書 4:1-15, 真のキリスト教 200
訳者:鈴木泰之
朗読使用歴:2008年2月3日(東京グループ/東京・葛飾・シンフォニーヒルズ)