石を転がしてどける

エリック・H・カーズウェル牧師

「見よ、大きな地震が起こった。
それは、主の使い[天使]が天から降りて来て、入口から石を転がしてどけ、
その上に座ったからである」
(「マタイ福音書」28:2)


 イースターの朝は啓示の時です。明け方に墓にやって来た女たちは、いろいろと予想していました。マグダラのマリアとほかのマリアは、主は亡くなられたと確信していました。彼女たちは、主の体がアリマタヤのヨセフが金曜日の晩に置いたところに横たわっているのを見ると予想していました「マタイ」27:57参照)。彼女たち自身が自分の目で、イエスの体が置かれたところを見ていました。墓の入り口の前には大きな石が転がされて置かれたのも見ていました。女たちは生き返られたイエスを見るとは予想していませんでした。おそらく、彼女たちは、寂しさと空しさを感じており、それは同じような喪失を感じた者でないならほとんど表現できるものではでしょう。彼女たちにとって、その日曜日の朝の明け方にその墓へ行くことは、その時、自分たちの教師であり指導者であった方への最後の敬意を表わすことを意味しました。しかし、私たちも知っているように、彼女たちにとってイースターの朝は、啓示の時、大いなる喜びの時でした。主がよみがえられただけでなく、自分たちの希望と信仰のもとに再び新しいいのちが起こったのです。女たちが墓へ向かった悲しみの足取りと、そしてまたエルサレムへ急いで戻るときの足取りがどれほど異なったものか、思い浮かべてみましょう。イースターの朝はすばらしい啓示の時です。

 主が弟子たちにすべて教えられたにもかかわらず、弟子たちは金曜日の出来事への心構えができていませんでした。主は、ご自分が十字架にかかり三日目によみがえると予告されたのですが、それでも主に従った者たちは、主の言われたことの意味が理解できませんでした。彼らが主のほんとうの役割を彼らが見いだす前に、主の語られたあらゆることが、経過しなくてはなりませんでした。マグダラのマリアとほかのマリアがイエスを感じたとき、それは不滅の関係であり、そしてそれがイースターの朝の啓示についての要点です。彼女たちは夜が明け始める時に墓にやって来て、そこで最初に良いおとずれを知りました。彼女たちが最初によみがえられた主を見たのです。この最もすばらしい奇跡であるおとずれをエルサレムの使徒たちに最初に告げたのは彼女たちでした。

 主は、私たちのだれをも、最初のイースターの朝と同じような啓示の時へと導きます。天界への霊的な旅を始めた時、そこには私たちに、あまりに多くの理解できそうもない事柄があります。私たちのために主が注意深くみことばの中に述べられたことを繰り返し繰り返し読んでも、初めのうちは、それらのほんとうの意味はよくからないかもしれません。実際に、私たちにある悪への自然的な傾向からの影響によって、主が私たちに語られたことを、最初、私たちが理解できないのは避けられません。これらの遺伝からの傾向によって、悪霊は私たちの思考の中へ流入して、私たちの学んだことをねじ曲げ、ゆがめます。悪霊は真理の意味をねじ曲げ、虚偽そのものに変形しようとします。これは彼らの行なう極めて有害で危険な行動です。彼らは私たちに、自己中心のあるいは世俗的なことばかりに焦点を当てた事柄といった悪事をやらせようとします。しかも、それらをみことばに述べられているものによって正当化さえします。新教会の「著作」はこれを「真理の虚偽化」と呼んでいます。それは次のように定められます――「……みことばを虚偽化することは、みことばから真理を取り出し、真理でない命題を証明するためにそれらを用いることである。……これはみことばの文脈から真理を取り出し、これを破壊することで行なわれる」『真のキリスト教』162:8)

 この最後の恐ろしい言葉から、確かに私たちは金曜日の悲しい出来事を心に思い浮かべます。イエスに行なわれた事柄は、悪人がみことばの真理に対して行なうことを表象しています。それは、私たちの心の内部で働き、私たち自身の思考と意図の中で行なおうと機会をうかがっている悪霊です。悪霊は私たちの心の中の主の真理を死んだものにし、大きな岩の後ろに封印しようとします。しかし主は常に、私たちの内部で生きて現在(注)されようとします。このことが次の言葉で描かれています――

 人間はだれひとり、その霊的な心が開かれていないかぎり、仁愛から善を行なうことはできない。霊的な心は、ただ人間が悪を行なうことから遠ざかり、悪はみことばにおける神の戒めに反しており、かくて主に反しているために、ついに悪から遠ざかることによってのみ開かれるのである。人間がそのように悪を避け、遠ざかるとき、彼が考え、欲し、行なうあらゆるものは、それらは主から発するため、善である。なぜなら、主は絶えず現在され、扉を叩かれ、入ることを切望し、欲しられているが、悪がそれに対立するからである。それゆえ、人間は悪を遠ざけることにより、その扉を開かなくてはならない、なぜなら主が入られてそこで食事をされることは、悪が遠ざけられるときのみ可能であるから「黙示録」3:20)。人間が悪を行なうことは自己から発しているため、人間が開けて遠ざける、と言われており、主は、すでに言ったように、絶えず現在され、扉を叩き、切望されているため、人間はあたかも人間自身によるかのように悪をつつしむ能力を持っており、この能力もまたあらゆる人間に与えられている。このことが、人間は自らに対し自らにより天界を閉じることができるので、彼はまた、あたかも自分自身によるかのように天界を開くことができる理由である。人間は悪から遠ざかることを考え、欲し、主を注視し、そして〔悪から〕遠ざかり、そしてこのことは主から発していることを承認するなら彼はまた、あたかも自分自身によりかのように天界を開くことができる理由である『黙示録講解』798:6)

 私たちが私たちの自然的な遺伝からの傾向と異なって行動しようとしないなら、主が何度も私たちに語られたように、主は私たちの内部に現在することはできません。異なって行動することは、少しばかり効果を上げることがあります。ときにそれは大規模な闘いとなることがあります。それは、私たちを主に従うことから離れさせることを可能にする試練との闘争であり、私たちの中の悪霊があらゆる誤った考えをもたらし、あらゆる自然的で、悪い動機を刺激する間、続きます。これらの闘争は、主が私たちに担わなくてはならないと言われた十字架です。これらの闘争にあって、人は、イエスがご自分の試練で会われたような絶望の時に直面します。そうした試練の目的は、勝利を誇ることではありません。それはしばしば死のように感じられ、またある種の無感覚が続きます。もし、人が主の助けにすがるなら、試練の暗やみのあとに霊的な夜明けの優しい光が続きます。

 この霊的な夜明けの中で、私たちの心には最初のイースターの朝の啓示のように真理が啓示されます。墓の前の大きな石のような誤った考えは、今や転がされてどけられました。このことが起こる時、私たちは、今までの考えていたものが死に、私たちの希望や目標が埋葬されたことを、喜びをもって見ることができます。私たちはそのとき空っぽの墓を見ます。試練の闘争の中で保持しようとする私たちの努力を通して、主が私たちに備えてくださったその方のいのちと知恵を新しい方法で受け取るようになります。このことが次のように描かれています――

 みことばから発する真理に関わる知識は、内なる霊的な人が開かれないうちは、人間のもとに生きていないで、この内なる霊的な人は、人間が再生されつつある間に主により開かれる。そのとき、その開かれた霊的な人を通して天界から霊的なものが、自然的な人の中のみことばから発する真理と善に関わる知識の中へ流入して、その知識を生かすのである。それは、自然的な人の中の真理と善の知識は、内なる霊的な人の中にある霊的なものと対応したものになるといった方法で生かすのである。それらが対応したものとなるとき、それらのものは生きるのである。なぜならそのとき霊的なものは、霊魂が肉体の中に囲まれているように、その特殊な知識または真理の中に囲まれるからである『黙示録講解』967:2)

 天使たちによって墓から石が転がされてどけられたことは、私たちの心の内部に真理が開かれることです。この開かれることは、主の教えられることにしたがって生きることによって達成されます。そのことが次ぎのように明快に述べられています――「主について、また隣人についてよく考えることは、天界からの道を開く。一方、主についてよく考えず、また隣人について悪く考えることは、その道を閉ざす」『黙示録講解』208:3)

 イースターの朝によって表象される真理の啓示は、通常よく言われるような深い知的な事柄ではありません。そうではなくて、それは明確な知恵、信頼、内なる深い平和のもとです。

 平和は……人々の心を全体的な喜びで満たす地上の夜明けに似ている。また平和の真理は夜明けの光に似ている。平和の真理と呼ばれるこの真理は、天界に現在する神的な真理そのものであり、主からやって来るものである。それはそこにいるすべての者に例外なく影響を及ぼし、天界に天界であることを引き起こす。平和はその内部に、主がすべてのものを支配され、すべてのものを備えてくださるという、また主は善である目的[終点]へ導かれるという,主への信頼がある。人は、主についてこれらのことを信じるとき、平和にいる。なぜなら、何も恐れないし、何か自分をわずらわせるものが起こるかもしれないとの不安もない。人がこの状態にどれほど到達するかは、どれほど主の愛を得るかにかかっている『天界の秘義』4855)

 このことは次の中にさらに述べられています――

 平和の真理は主から発出する神的な真理であって、天界の中に現在する。それは最も内なるものであり、それはそれ自身を、下にある真理へ導き入れ、それにいのちを与える。朝、露が落ちるとき、〔その露が〕草や成長する作物を常に生かすようにである。下にある真理が生かされるとき、平和の真理は上昇する、すなわち、もはやそれはそこにあるようには見えない、そこからは生かされた真理だけが見られる。これが、どのように信仰の真理が生まれるかである。なぜなら、教義やみことばに含まれるどんな真理も、それが神的なものからいのちを受け取るまでは、人にとどまる真理とならないから。それは、平和の真理と呼ばれる主から発出する真理の導入を通して、いのちを受け取るのである。この真理は信仰の真理ではなく、むしろ、信仰の真理のいのち、または霊魂である。それは信仰の真理と呼ばれる真理の内部のあらゆるものを天界に形作り、またその後、真理それ自体がお互いに関連するようになる。このすべては、平和の真理によって人間のもとに真理が導入されるとき何が起こるか示している『天界の秘義』8456)

 イースターの朝の喜びは、新しく真理が見られたことの喜びです。大きな石が転がされてとけられ、知識の死んだ形でなく、勝利を得た生きた真理を啓示する喜びです。

 私たちが、イースターの朝のこの喜びを、私たち自身の生活の中で、何度も経験できますように。私たちが主の教えられることを学び、それにしたがって生きることができますように。私たちが主に従う戦いで闘うことができますように。私たちがこうするとき、私たちの学んだことが、最初はなかなか理解できなくても、私たちに開かれ、私たちが今まで以上により明確に主を、またあらゆることの中に主が生きておられ、現在されることを見ることができますように。アーメン。

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 『黙示録講解』400:14
 天使が天界から降り、墓の入り口から石を転がしてどけた時に「大きな地震」が起こったことは、教会の状態がまったく変化したことを意味した。そのとき主はご自分の人間性に関してよみがえられ、主ご自身がマタイ福音書(29:18)で言われているように、天地のすべての支配を得られた。「天使が入り口から石を転がしてどけ、その上に座った」ことは、主に近付くことを締め出してしまうすべての誤った考えを主が取り除かれたことを、また主が神的な真理を開かれたことを意味する。「石」は、当時の教会の人々の伝統によって虚偽とされた彼らのもとの神的な真理を意味している。なぜなら、主要な祭司とパリサイ人によって石は封印され、守衛を付けられたと言われているからである。しかし天界からの天使がそれを転がしてどけ、その上に座った「マタイ」27:66,28:2)。地震について、また墓の入り口の前の石について言われたことは、わずかであるが、しかしそれらによって意味されることは多い。なぜなら、主の受難について福音書に書かれている一切のことには隠された知恵が含まれ、深い意味があるからである。

 『黙示録講解』687:18
 墓で女たちに見られた天使は、主の栄化と主によって人々が天界へ導かれることを表象する。なぜなら、墓の前に置かれ、天使によって転がしてどけられた「石」は、神的な真理を、こうしてみことばを意味するからである。それは当時の教会の人々によって閉ざされていたが、主によって開かれたのであった。


タイトル:Rolling Back the Stone
説教者:Rev. Erich H. Carswell
掲載誌:"New Cjurch Life" April, 2001
併読箇所:
マタイ福音書 28:1−12,『黙示録講解』 400:14, 678:18
訳者:鈴木泰之