井戸端の女

一般教会との対話

ピーター・M・バス主教


 イエスは、このサマリヤの女を優しく扱われました。ユダヤ人たちから嫌われた人種の一つであり、この女の生活は理想からほど遠く、イエスに従う多くの者たちのうちでは、そのキリスト教会の候補者に似つかわしいとは見なされなかった人たちの一人です。けれども、女の反応は積極的でした。自分自身が信じただけでなく、主を見せようと町の男たちを連れてきました、それで多くの者が彼女によって信じました。

 主とこの女との対話は、主が一般教会の人々のところへ到達される方法を表わしています。新教会の「著作」には、主はだれをも等しく愛されていることが教えられています。主は、どんな宗教からやって来た人でも、その人が神を信じ、その正しいと考えることを行なうかぎり、彼を天界へと導かれます。その人たちは多くの誤った信仰を持っているかもしれませんが、もしその良心に心から従うのなら、いつか主は真理を示して下さり、この世あるいは来世で、彼らは天使となるでしょう(『天界の秘義』1032, 1059, 9256, 9209, 845, 1832, 1336参照)

 この世に生きている間、このような人々は主の教会の一部分となっています。「主の教会は、ここにあるいはあそこにあるというものではなく、どこにでもあります。主の教会は、仁愛の教えにしたがって生きている人々のいるところなら、教会のある国の中にも、またその外の国にもあります。主の教会は全世界に散らばっていますが、それでもそれは一つです」(『天界の秘義』8152)

 サマリヤの女は、主の一般教会の人々を表わします。彼らは主の真理を知らないかもしれませんが、自分の正しいと考えることを誠実に行なおうと努めています。主は彼らを愛されています。主は彼らのもとに到達し、教えようとされます。

 それで、この物語では、女が質問をするとき、まだ主の新教会に属していないけれども心の善良な人々のことを考えてください。イエスの答えは、一般教会に話しかける「著作」そのもののことです。「著作」に接するようになった探求心のある人々が質問し、「著作」がそれに答えるわけです。それらの答えは、ちょうど主が世で話されていたときのような、主ご自身からのものです。

 「主はサマリヤを通って行かなければならなかった」。イエスはガリラヤへ行くつもりでしたので、実際にはサマリヤを通る必要はありませんでした。以前よくしたように――エリコの東、川を横切り、サマリヤ人よりも友好的である地域であるヨルダンの東岸を通って行く――これがユダヤへの旅でしたが、主はこうすることもできたのです。主はサマリヤを通って行かなければならなかったといわれているのは、主の愛がご自分に、これら一般教会へも行くようにと命じていたからです。

 「それで主は、ヤコブがその息子ヨセフに与えた地所に近いスカルと呼ばれるサマリヤの町に来られた」。スカルの昔の名前はシェケムであり、その町は旧い状態のみことばを表わします。シェケムには井戸がありました。アブラハムでもイサクのものでもなく、ヤコブの井戸でした。この三人の族長は人間のいのちの三つの段階を表わします。アブラハムは天的ないのち、イサクは霊的ないのち、ヤコブは自然的ないのちを表わします。水は常に真理を表わし、それゆえ、ヤコブの井戸は、一般教会の人々が持っているような真理を表わします――自然的な真理です。

 主は常に、初めから、ご自分の真理を明らかにされています。この真理は何世紀にもわたってゆがめられてきましたが、それでも見つかります。スカルにあるヤコブの井戸は、世からその価値を汲み取っている、世の中の学問の団体を表わします。彼らはヒンドゥー教のヴェーダンタ哲学、クルアーン、ユダヤ教の聖典や教父の著作から学ぶかもしれません。過去のもののこの学びから、彼らは“水” を汲みます――どのように生きるかを教えてくれる真理です。それらは、基本的な、自然的な真理です。

 「サマリヤの女が水を汲みに来た」。女は教会を成り立たせる真理への情愛を表わします――サマリヤの女は真理を切望していて、まだ「著作」を見いだしていない人々の中にある情愛です。

 「イエスは、『わたしに飲ませてください』と言われた」。イエスはご自分を助けてくれるようこの女に求めました。人々が教会にやって来たとき、ときどき私たちだけが何か提供できるものを持っているような印象を与えてしまいます。その人たちもやはり提供できるものを持っています。主は彼女から水を求められました。主は、善良な人々が世を通して発達させた自然的な価値を喜ばれます。

 女は驚きました。「『あなたはユダヤ人であるのに、どうしてサマリヤの女である私から飲もうと求めるのですか?』――ユダヤ人はサマリヤ人と付き合わなかったからである」。彼女はイエスをユダヤ人と思いました。事実、主はすべての人々の神ですが、彼女は主を特別な人種に属する人だと思ったのです。

 「著作」に出会った人々は、最初はそれらを一つの教派の教えだと思います。なぜなら、教派は互いに中傷する傾向があり、「著作」も自分たちを非難するだろうと想像するからです。しかし、イエスはユダヤ人でなかったように(そのように思われていますが)、「著作」も教派ではありません。それは真理なのです。

 イエスは奇妙にしかも能力をためすように答えられました。「もしあなたが神の贈物を、またあなたに『飲ませてくれ』という者がだれであるかを知っていたなら、あなたはその人に求め、そしてその人があなたに生ける水を与えたことでしょう」「神の贈物」――これは主のみことばへのなんと美しい言い方でしょうか。これは「著作」のことです。それは人類への主の贈物です。

 これが「生ける水」です。これは言葉の奇妙な組み合わせです。これは、人々が「著作」を読むとき、そこには何か特別な、何か生きている真理があると感じる、その感情を伝えています。

 女は当惑しました。「主よ、あなたは汲む物を何も持っていません、しかも井戸は深いのです。それでどこからその生ける水を得るのですか?」「著作」と接するようになった人々は、それが古くからの権威を引用しているように見えない事実に当惑します。ヤコブの井戸から汲むようには思えません。イエスが山の上で説教をなされたとき、その終わりに人々が、「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた」ので驚いたこと(マタイ 7:29)を思い出すでしょう。「著作」は古来の聖人から引用していません。「著作」は権威をもって語ります。死後の世界を告げます。みことばの連続する内意を明らかにします。人間の心の段階を語ります。以前、人間の権威によってこれらのことが明らかにされたでしょうか。この真理はどこからやって来るのでしょうか?

 「あなたは、私たちの父ヤコブより偉大なのですか? ヤコブはこの井戸を私たちに与え、ヤコブ自身もその息子たちもその家畜も、これから飲みました」。ヤコブの井戸は自然的な真理を表わすことを思い出してください。「著作」を読む人々は、「この真理の方が自然的な真理よりも深いのだろうか? 以前に学んだ真理よりももっと力強いものなのだろうか?」と自問しているのに気づきます。

 イエスは明確に答えられました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、永遠に渇かないでしょう。わたしの与える水は、その人のうちで、永遠のいのちへとわき出る泉の水になるでしょう」。ヤコブの井戸の水は人間の真理です。これは蓄積された過去の知恵です。役に立ち、少しの間、渇きをいやします。人々は、シェークスピアの戯曲、カントの哲学、また聖アウグスティヌスの著作から引用し、これを適用します。しかし、人の持つ人生観は生活の一部分のためだけのものです。再び渇きます。

 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、永遠に渇かないでしょう」。これは「著作」を読んだ人々が持つ「この本は他のどの本とも違う」という第一印象を表わします。その中にある真理は精神をさわやかにする常なる源であり、涸れ果てることはありません。そこには汲み尽くせない意味が含まれています。

 「女はイエスに言った。『主よ、私が渇くこともなく、ここに水汲みに来なくてよいような、その水をください』」。笑いたくなります、彼女は主を誤解しています。主の言われたことを表面的に解釈し、毎日井戸まで重い水瓶を運ばないで済むようにと望んだのです。

 このようにここからはまた、「著作」に興奮して最初は、そこにすべての疑問に対する明快な答えがあると感じる単純素朴な人々が目に浮かびます。

 「著作」では、その女のことを表面的であったとは言っていません。彼女の答えをほめています。『天界の秘義』の 680番に、主がかつて、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。このパンを食べる者は永遠に生きるでしょう」(ヨハネ 6:51, 58)と語った事実について、「しかし今日では、これらの言葉を聞いて、『これは難しい言葉だ。聞くことを誰ができるのか』と言って、ひき返してしまい、もはやイエスとともに歩かなかった者たちのような人々がいます」と述べてあります。それから、「わたしの与える水は、その人のうちで、永遠のいのちへとわき出る泉の水になるでしょう」と、イエスの言われたことを聞いたときの女の答えについて、「著作」は続けて、「今日では、主が井戸端で話され、『主よ、私が渇くこともなく、ここに水汲みに来なくてよいような、その水を下さい』と、答えた女のような者がいます」と述べています(『天界の秘義』680)

 重要なことはその女が主の言われたことを受け入れたことです! 彼女は主をあざけることもできました。「あなたは自分が生ける水を与える者だと思っているのですか?」と問うこともできました。でも、そうしませんでした。主にある何かが彼女に、「この人は普通の人ではない、信じるべき人だ」と語りかけたのです。

 「著作」を読み、そこにこれらは神からのものであるという主張を見いだすとき、それらを信じようとし、またそこに自分の人生への助けを探し出そうとする人々がいます。“井戸端の女”は、こうように尋ね、探し求める人を意味します。

 さて、ここで主題は明らかに急変します。「イエスは女に言われた。『行き、あなたの夫を呼び、ここに来なさい』」。あなたは彼女の表情の変化を認め、ややこわばらせたその声を聞き、肩を落としているのを容易に察知できるでしょう。「『私には夫がありません』。イエスは言われた。『よく言った、私には夫がないと。あなたには五人の夫があったが、今いる者はあなたの夫ではない。あなたはこのほんとうのことを言った』」

 この女は、人生の門出にいて、必ず自分のものにするという幸福への希望でいっぱいの純情な若い娘ではありません。夫の愛と子供を手に入れ、来るべき最良の日々を待ち望んでいる幸福な既婚の婦人ではありません。現実のつらさを知った女でした。人生に苦い思いをし、その生活にはもうほとんど何も期待できないのも当然でした。一緒になって幸せをつかもうと望み、五回、彼女は夫に信頼を寄せました。その度ごと(どういうわけか知りませんが)、失望してきました。そのときも、おそらく六回目の結婚を期待するでもなく、おそらく価値も見いださずに、男と一緒に暮らしていました。

 「なぜ主は彼女のような者のところに行かれたのだろう?」と思うかもしれません。しかし、このように厳しい人生を送り、それでも自分に生ける水を約束する者と話しながら井戸端に立ち、そのようなものがあるのだろうと信じる、この女の持つ信じられないほどの理想を受け入れる能力のことを考えましょう。イエスは彼女の心を知っていました。このように多くの失望の中から生き残った美しく理想的なものへの切望を、主はご存じでした。主は女に、その生涯を理解していることを示されたのです!

 「五人の夫」。みことばでは、夫は真理への理解力を表わします。女は真理への切望を表わし、理解力である夫は、真理を応用できるものにする価値ある体系です。数「五」は少ないことを表わします。ここでは、理解力を求め、人生への慰めや意味を与えてくれる価値ある体系を探しているけれども、少しの満足しか見いだしていない人を霊的に描いています。とうとう、六番目の男にも彼女は自分の身をゆだねることができませんでした――世の中を学ぶことが与えてくれるはずの最後の価値ある体系を抱くことへのためらいがありました。

 世界中にこのような人々がいます。その人々は人生の意義をつかもうとしています。彼らは、霊的な夫である指導的な原理を探しています。それを見つけていません。

 しかし、まだ探しています。心の奥深くに、愛する神が私たちに与えてくださるような人生、またそのような人生を見いだす方法を語る完全な真理への切望があります。

 そのような人に、主は話しかけられます。彼らに、主はその生ける水――「著作」の真理を提供します。「著作」の中で、主はそのような人々の希望、その失望、その切望を承知していることを示されています。

 「女は言った、『主よ、あなたを預言者だとみなします』」。これは平凡な決まり文句のように思えますがそうではありません。イスラエルには四百年間、預言者がいませんでした。彼女はすばらしい発見を告げています。同じように、人が「著作」を読むとき、劇的な何かが起こり、「これは十七世紀の哲学者の本ではない、主からの啓示だ」と考え始めます。

 そのとき女は、むしろつまらない質問と思えることを主に尋ねます。「私たちの父たちは、この山で礼拝しましたが、あなたがた〔ユダヤ人〕は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」。実際には「どちらの教会が正しいのですか?」と言っているのです。ユダヤ人は、エルサレムが神を礼拝すべきただ一つの場所だと言いましたが、サマリヤ人たちは、ヨシュアがイスラエルの子孫に祝福を読み上げた山、ゲリジム山で礼拝するのがよいことだと信じていました。

 人が「著作」を見つけ、それを信じ始めるとき、長らくその人を悩ましていた外なる疑問が「著作」によって解決できるかまず問いかけてみます。妊娠中絶は正しいのか間違いなのか、どういった産児制限が正しいのか、安楽死はいったい受け入れられるものなのか、と問いかけてみるでしょう。新教会の洗礼は全身を水に浸すのか、それとも頭に水をしるすのか? 結婚式や葬式にふさわしい慣習は何か?

 イエスがどのように女に答えられたか注目しましょう。ユダヤ人たちは正しい、けれども最終的に問題となるのは、礼拝の精神だと言われました。「わたしを信じなさい、女よ。この山でもなく、エルサレムでもなく、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。あなたがたはあなたがたの知らないものを礼拝しています。わたしたちはわたしたちが知っているものを礼拝しています、それは救いはユダヤ人にあるからです。しかし、真の礼拝者たちが霊と真理の中に父を礼拝する時が来ます、今です。なぜなら、父はこのような礼拝をする者たちを求められるからです。神は霊です。礼拝する者たちは霊と真理の中に礼拝しなくてはなりません」。ユダヤ人たちの礼拝は正しかったのです、しかし、問題なのは礼拝の精神です。

 これが疑問へ答える「著作」の方法です。ときどき「著作」には、ある特殊な行動様式を薦めることがありますが、いつもは原理を思い出させ、そこから応用を導くようにします。「著作」には命令はほとんどありません。愛と信仰の原理を理解させ、そこから私たちを決断させます。そこには多くの外側の形式もありますが、そのそれぞれは神からの内部の愛を写し出しているのです。

 それから、女は最後の質問をします。これは実際には質問ではなく、ほのめかしでした。「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、すべてのことを私たちに告げてくださるでしょう」

 新約聖書の中でわずかに三度だけ、イエスはご自分がキリストであることを述べられています。最後のときは、イエスが裁判にかけられていたとき、大祭司に向かってでした。大祭司は言いました、「生ける神によって、あなたに誓約を命じます。あなたはキリスト、神の子なのか私たちに告げなさい」(マタイ 26:63)。イエスはまさに中心となる真理を否定しようとしませんでした、がこれはいずれにせよ問題ではありません――聴衆は聞こうとしませんでした。イエスは、「わたしがそうだ」と言われました。

 二度目のときは、生まれながらに盲目であった者にイエスが視力を与えられたときです。その男は、「イエスがこの奇跡をなされた」と言い張ったので会堂から放り出されました――教会から追放されました。そのときイエスは彼を見つけ、「私がキリストだ」とご自分から明かされました。

 最初のときは、このサマリヤの女へです。これは単純な宣言でした。「あなたと話している者、わたしです」。これは「著作」がじつに神のみことばであることのはっきりした宣言です。

 女は、自分の水瓶を置き去りにして、町に入って行き、人々に、「来て、私のしたこと全部を言った人を見てください。この方はキリストではないのか?」と言いました。「彼らは町から出て、彼のほうへやって来た」

 彼女は、自分の水瓶を置き去りにしました。もはやこの探求者は過去の知識の中に価値を探そうとはしません。その代わり、心にあるいろいろな原理――町の人々――を呼び集め、「著作」を提示します。これは過去の価値や思想を取り出し、それらが「著作」によって明らかなものになるか見てみる努力を表わします。これはゆだねようとしながらも、調べてみることです。

 女の言葉に注目してください――「来て、私のしたこと全部を言った人を見てください」。人が「著作」の述べていることに魅力を感じ始めるようになったとき、なぜならその人に生き方に触れているように思えるからですが、その人は、「どうも『この著作』は私の考えていることをわかってくれているようだ、私の気持ちに答えてくれるものがありそうだ、私の心をのぞき見て、私のいのちがどのようなものか知っているように思える」とつぶやきます。「著作」が心に疑問を持った人に話しかけてくるとき、しかも答えを導きながら、ものごとの原理に語りかける真理である生ける水をもって話しかけてくるとき、興奮します。

 そこでその人は、「どうも『この著作』は私のしてきたことを全部知っているようだ」とつぶやきます。私たちの心の中の薄暗い隅々までも、「著作」によって語られていないようなところはありません。主は私たちの弱さ、失敗、罪をご承知なのだとわかります。主はその人をご存じです、それで「著作」がどんなものであるか示され、そこからどのように救われたらよいかをその人に知らされます。そこには主と結び付いた純真な希望や期待や愛があります。主はご自分の真理を通してそれらを現実のものにします。「来て、私のしたこと全部を言った人を見てください。この方はキリストではないのか?」

 この物語が終わるその前に、イエスは弟子たちと語し合われます。その中には私たちの教会やその宣教への努力について語っている多くのものがありますが、それでも一節で足りています。弟子たちが帰ってきました、そして主が女と語っているので不思議そうに黙って見ていました。彼女が去った後、弟子たちは食べていただこうと主を招きました。主は、「わたしは、あなたがたの知らない食べ物を持っています」と答えられました。弟子たちは驚き、だれが主に食事を差し上げたのだろうかと不思議に思いました。そこで主は、「わたしの食べ物は、わたしを遣わした方の意志を行ない、その業を成し遂げることです」と答えられました。

 イエスの話された食べ物とは何だったのでしょうか? それは、できるかぎり行き渡らせ、あらゆる一人ひとりの人間を救おうとする主の愛でした。このことのために主は飢え、その人たちを見つけて助けられたとき、主は食事をなさったのです。

 弟子たちの知らなかった食べ物とは、キリスト教会に入って来るであろうユダヤ教以外のたくさんの人々でした。その頃、主は弟子たちに、「あなたがたはわたしがサマリヤ人のところに、またローマ人、ギリシャ人のところに行くべきであると思うか」と質問されています。弟子たちはおそらく、これらの遠く離れた人々を愛そうとされる主の飢えを認めることはできなかったでしょう。おそらく弟子たちは、「いいえ、このすばらしい真理を私たちのものとしてください。私たちは選ばれた人種です」と言ったことでしょう。

 しかし、主はこの村のサマリヤ人のところに行かれ、その人々は応じました。それですべての人々を救おうとの神的な飢えは満たされました。しかも止むことはありません。「わたしの食べ物は、わたしを遣わした方の意志を行ない、その業を成し遂げることです」。一般教会への主の愛は決して満たされません。人間が主のみことばを聞き、応じるときはいつも、主は新たな食事をなさっているのです。

 さて、スカルの人々がイエスのところにやって来て、自分たちのところに二日間滞在してくださるよう頼みました。「二日間」は教育の状態を表わします。「著作」を受け入れ始めた人に起こる学習の過程を示しています。

 「その町から多くのサマリヤ人が、『私のしたこと全部を言った』と証言する女のことばによって、イエスを信じた」。これは信仰の一種です。教会の証言によって多くの人々が「著作」へとやって来ます。今や信者である、その女は教会を成り立たせる真理の情愛を表わします。人々がやって来て説教や講話を聴き、「著作」の教えは自分たちのいのちのためになると感じます。これは効果のある信仰の形です。「さらに多くが、イエスのことばによって信じた。そして彼らはその女に言った。『もはや私たちは、あなたの話しによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうの世の救い主だと知っているからです』」

 これは「著作」そのものがうながす信仰です――それらの真理の中に直接私たちに語りかける主ご自身を見る能力です。その静かな理性的な散文が一人ひとりに語りかけます。それぞれの人間の知的な自由を、物事が正しいかどうか見極めるように、それ自体から高めます。探求者がそのページをくくり、この著者は主なのだと発見するとき、その人が第一に掛かり合うべきものは教会ではありません。主です。

 この霊的な対話は一度だけ起こったのではありません。善意の人がいる地球上のどこでも、主はこの意思疎通を求めておられます。真理への切望のあるところに、失望や幻滅があっても、いのちの原理を探し求める人のいるところに主は、「わたしに飲ませてください」と言って、対話を始めようと待たれ、現在されています。「私は喜んであなたの真理への愛の中に入って行こう」と言われ、それから主は、私たちの心の静かなところで、私たちがその新しいみことばの中で主をはっきりと見ることができ、その対話を「この方がほんとうの世の救い主だ」と言う瞬間へと導かれます。


タイトルThe Woman at the Well
説教者:Rt. Rev. Peter M. Buss
掲載誌:"New Church Life" April, 1991/ 『クエリテ』第8号(1993年6月)
併読箇所:
ヨハネ福音書 4:1−42
訳者:鈴木泰之