回復された契約

ピーター・M・バス司教

「わたしは雲の中に、わたしの虹を置く。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」(創世記 9:13)


  かつて二人の友達がいました。彼らはいっしょに育ち、いっしょにある事業を始めました。その事業は栄えました。やがて年も経ち、それぞれ結婚し、その家族たちも親しかった。彼らの関係は互いに信頼し合ったものでした――互いに監視する必要など少しも感じませんでした。

 それから、友達の一人が多くの金を浪費し始め、その支払いに会社から金を引き出すようになりました。彼の盗みは見つかり、共同事業は苦々しさのうちに解消されました。

 数年後、どんなに悪い振る舞いであったか悟って、彼は友のところにやって来て、「私はすごく悪いことをしました。私たちは仲が良かったし、家族たちもそうでした。壊してしまった関係を修復できないでしょうか?」と言いました。彼らの友情ゆえに、また彼も彼の家族も深く悲しんでいたので、その純真な友は同意しました。

 彼らの間の新しい共同関係は、どんなものに似ているでしょうか? それは壊れる以前のものとは異なるでしょう。今度は、おそらく彼らは注意深い取り決めするでしょう。それぞれを守るために弁護士を雇うかもしれません。かつての仕事仲間が見せた弱さから守るために、彼らは会社の財政上の取引におけるすべてを帳尻が合っているか点検するでしょう。

 もし、欺いた者が新しい取り決めを何年間も守るなら、彼らの間に、新しい信頼関係、新しい友情が生じるのではないでしょうか? 確かにそうなります。それが、その友が戻ってくるのに同意した時に、彼の望んでいたことです。新しい友情の中には、かつて壊れた信頼の陰影が存在します。しかし、罪のある側はその契約を守り通そうとしています。彼は知るだろう、友を陥(おとしい)れた貪欲に対する警戒が必要であると気づくでしょう。友がどれほど罪の意識を感じて、自分の弱さに気づき、それを防いでいるか知るとき、彼はその友をますます信頼するでしょう。

 この第二の協調関係は、今日ほとんどすべての人類が入っている主との契約を示しています。私たちは赤ん坊のとき、無垢の中に生まれています。しかし、大部分の私たちは、その無垢を失い、意識的に何か悪いことを行ないます。私たちが無垢を失ったことを実感する時、主は私たちとの関係を絶たれますか? もちろん、そんなことはありません。主は私たちとの新しい契約を創り出されます。この新しい契約は、私たちが自分の弱さに気づいて生きる中での絆です。私たちは自分の弱さを警戒します。そこで主はもう一度、私たちの友となってくださり、私たちを天界へ導こうと働らいてくださいます。

 この話にはもう一つ別のことがあります。一方の友が使い込みを始めた頃、彼は18歳の自分の息子をその仕事仲間に加えました。彼は不正行為に息子を利用し、会社から盗んだ金を報酬として与えました。その結果、その息子もまた、不正直の傾向を育成されることになってしましました。結局、息子が愛し、信頼した父は、彼を悪い方へ導いたのでした。

 その息子は、父によって教えられたその傾向を非難されるべきですか? いいえ。しかし、結果として実際に、彼もまた守り、戦わなくてならない問題が、彼に生じていませんか? そうです。それゆえ、彼にもまた、純真な友は、自分の弱さと戦うその息子を助けるために注意深い協定を定めるべきです。

 今日の私たちのすべてがこの状態に生まれています。歴史を振り返れば、しばしば、私たちの祖先のほとんど大部分の者が、主を拒絶してきました。私たちが彼らから引き継いだものは現実の罪ではありません。私たちは祖先の行なった罪に対して無罪ですが、しかし私たちは悪の動機に応じてしまう傾向を遺伝によって引き継いでいます。私たちは私たち自身についてそのことを知っています。私たちが怒りや貪欲を感じ、自己中心的であるからといって、私たちに罪はありません。それらの傾向が私たちに祖先から伝えられたのです。しかし、私たちは、それらの感情が私たちの内部にあることに注意しなくてはなりません。

 主が今日の私たちと結ばれる契約の要素はそれです。主は、私たちが何か悪いことを望む傾向を持っていることを知っておられます。主は、それゆえに私たちに罪があるとはされないで、その罪から離れて、天界へ向かうよう、私たちを導くことを誓われたのです。

 それが、洪水の後、主がノアに送られた虹についての物語の霊的な意味です。主は言われました。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが世々永遠わたって結ぶ契約のしるしはこれである――わたしは雲の中に、わたしの虹を置く。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」(創世記 9:11, 12)。この物語の中に、地上の人々を拭い去ることをしない、という主の約束が示されています。内意では、これは私たちの弱さを助けられるときの主の慈悲を語っています。

 主が最初にこの世を造られた時、主はすばらしい愛の契約をご自分の子供たちと結ばれました。お互いに信頼する友達のような、地上の人々はそのように信頼できました――彼らは主に無垢の状態で従いました。それから人類はその契約を破りました。故意に罪を犯し、悪の中に浸かりました。

 主は人類をあきらめられたでしょうか? もちろん、そんなことはありません。主は新しい契約をつくられました。主は奇跡をなされ、私たちにみことばを与えられました。主は、私たちが真理を理解し、その真理を私たち自身の欲望と闘うために使う可能性を与えられました。主のみことばの中には、物事の善悪の律法が明らかに示されており、主は私たちにその真理を調べる力を、悪から離れる道を知る力を与えられました。これが、主の新しい契約です。「著作」はそれを「真理の道」と呼んでいます。「わたしは新しい契約を結ぶ。主は言われる……わたしはわたしの律法を彼らの内なる部分に置き、それを彼らの心に書きしるす」(エレミヤ 31:31−33)

 主の新しい契約は、二番目の取り決めに、二人の友達のうちの一方が信頼を裏切った後に、二人の間に結ばれた注意深い協定に似ています。それは一まとめにされた規則です。もしこれらの規則が守られれば、信頼が再び取り戻せます。それらの規則によって、愛すべき神とわがままな人間との間の新しい拘束が創り出されます。

 なぜ、虹がその新しい契約のしるしなのでしょうか? 「著作」は最も驚くべき説明を与えています。そこには、「虹の美しい色は、明るさと暗さの、すなわち、黒と白の組み合わせから形成される。二つの間の変化が、色を作り出す」と言われています『天界の秘義』1042)。虹の美しさは、私たちの中に存在する善(すなわち光)と悪(すなわち暗さ)の両者の名残(なごり)です。

 これは主との契約について、最も重要なことの一つです。私たちは正直に私たち自身の弱さを認めなければなりません。事実、虹が美しいように、私たちが私たちの弱さを認める時、また主がどのように私たちに善を与えてくださるかを見る時、私たちは美しさを見いだします。もし私たちが真理を自分たちの弱さ対する守りとして使うなら、そのとき、弱さは現存しても、罪あるもとのはなりえません。主が私たちの内部に現在されるとき、そのときそれらの欲望は活発になりえません――それらはあたかも死んだものです『天界の秘義』868)

 自分の友を欺いた人は、自分の残りの人生を自分の行なったことを思い出しながら過ごします。しかし、彼がその傾向に打ち勝つとき、彼の失敗は主によってまさに強さへと変えられます。彼は、再び決してそのような悪を行なわないことをどのようにして確実するかを学びました。何年もの間、彼は自分の能力を、盗みに、また自分の罪を包み隠すのに用いました。盗もうとする彼の欲望は、ノアの洪水のような悪の洪水のようなものでした。今では、毎日、自分の課題を認めることによって、彼はそれが再び起こらないことを確実なものにしています。エホバは言われました、「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」〔創世記 9:11〕

 旧約聖書、新約聖書、「著作」は人間との新しい契約です。それは、私たちが主へと向かい、天界を受け入れる過程を定めている非常に特別な契約です。何世紀も、人々は、真理のこの重要な要素を避けようとしてきました。人々は、自分たちが間違っていたことを認めようとしませんでした。しかし、もしそうしないなら、主に帰ることはできません。

 なぜ、私たちは自分の失敗を認めるのを恐れるのでしょうか? しばしば、もし私たちがそうするなら、私たちは主の目にあって、社会の目にあって、非難に立たされることを恐れます。それで、私たちは、自分に過失がないふりを装うのです。もし自分の落ち度を認めるなら、人々が何と言うだろうか、あるいは主が何と言われるだろうか、と恐れます。それで、私たちは自分たちの過失を、主からすら、また自分自身からすら隠します。そのとき、それらの過失は私たちのもとにとどまります。

 それでは、姦淫の現場で捕らえられた女の物語を思い出してみましょう。そこから、主は私たちの罪にどのように応じられるか、また私たちはどのように応じたらよいのか考えてみます。姦淫を捕らえられた女は恐ろしいことをしました。主はその女に何と言われましたか? 「わたしもあなたをさばかない。行きなさい。もう罪を犯してはなりません」

 「わたしもあなたをさばかない」。再三再四、地上の主は言われた、主は罪人を取り戻すために来られた、と。「わたしは失われた者を捜して、救うために来ました」〔マタイ 18:11、ルカ 19:10〕「わたしは、正しい者を招くためではなく、罪人を悔い改めさせるために来たのです」〔マタイ 9:13、マルコ 2:17、ルカ 5:32〕。しかし、救いには過程が必要です。罪を犯したすべての者に、主は二つのことを言われています。「あなたは罪を犯しました。わたしはあなたを赦しますので、どのようにしたらもう罪を犯さないか示してください」。二つのことが必要です――私たちが自分の罪に気付くことですが、これは罪を受け入れることではありません。主が私たちを罪から離れるよう導いてくださることを快く受け入れることです。 

 私たちについてはどうですか? だれかが罪を犯しているのを見るとき、私たちはどのように応じるべきですか? 女を罪に定めようとしていた者たちに、主は何と言われましたか?「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。社会は得意になって他人を罪に定めがちです。それは復讐のおいしい(味のする)精神だった、律法学者とパリサイ人が自分たちのあざけりを浴びせることのできるはっきりした罪人(つみびと)をイエスのところへ連れてきたのは、おいしい味のする復讐の精神からでした。

 主は彼らに何と問われましたか? 主は彼らに、だれか他人の罪でなく、自分自身の罪を見るようにと問われました。彼らがそうしたとき、驚くべき変化が起こりました。罪に定めようとする精神はやみました。「これを聞いた者たちは、良心によって過ちを悟り、年長者から始めて最後の者まで、ひとりひとり出て行った。そしてイエスひとりが残された。女は真ん中に立っていた」。私たちは、〔人を罪に定めないで〕主おひとりがその人もとに残られ、主がその人を助けられるようにと、人をそのままにしておかなければなりません。

 「著作」には、悪事を働く人に、私たちは道徳的で社会的な圧力を加えるべきであるとの教えがあります。殺人する人には、それを再びさせないようにしなければなりません。不道徳な人には、他人を傷つけることをやめさせるべきです。それが社会的な正義です。道徳的な正義もあります――ごまかす人には、ごまかすことをさせないよう、まじめでない人には、他人を操ろうとしてうそをつかせないようにすべきです。私たちは、姦淫、児童虐待、その他多くの社会的な罪を強く否定すべきです。

 しかし、圧力の目的は裁くことではなく、矯正です。私たちは主の第二の契約とともに働くようにしなければなりません。私たちは主が何と問うだろうか、と自問しなくてはなりません――正しいことへ戻る道を見いだすために、どのようにして人々を助けることができるだろうか?

 社会の法律は将来を見据えます。その法律は、もし違反した人が過失を認めて自分自身で第一歩を踏み出そうとしならより堅いものに、厳しいものにすらなります。最も必要なことは、私たちの弱さに気づいて生きることです。そのとき、他のすべての問題は片付くように思えてきます。ここには逆説があります。私たちの弱さを認めることは否定的なように思えますが、それでも、そのことなしに、積極的なことは何も起こらないのです。

 主が私たちに与えられた新しい契約は悔い改めの律法です。その中で、主は私たちに、どのように私たちが主に帰るのかを示されています。その中で、主は、私たちにはあらゆる悪があることを、それがどんなものか、どのようにそれを避けたらよいかを語られています。その契約の中で、主は、私たちが自分の弱さに対して闘うときに、ご自分の助けを、またご自分の天使たちによる助けを約束されています。

 それで、私たちは人々に、人間の弱さを認めることを恐れないようにしてあげしましょう。彼らに自分の過失を隠す傾向と闘うようにしてあげましょう。隠してしまっては、それに勝利することが妨げられるからです。今の生活の美しさとは弱さに打ち勝つ能力です、だれか他人を傷つけることでなく、私たちの自己中心的な本能と闘うことで、だれかにつくすことで、愛を示すことです。それが愛することです。私たちが私たちの心の暗いところで、真理の光とともに働くとき、主はいのちに変化に富んだ色づけをされます――虹です。これは私たちに対する慈悲深い神の契約を表わします。そのとき、神は私たちに語られます、「わたしはわたしの律法を彼らの内なる部分に置き、それを彼らの心に書きしるす。……わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」〔エレミヤ 31:31−34〕 アーメン。


タイトルThe Covenant Restored
説教者:Rt. Rev. Peter M. Buss
年月日:2003年8月17日
場所:東京・北区・北とぴあ
併読箇所:
創世記9-9-17, ヨハネ福音書 8:1−11,『天界の秘義』 1044
訳者:鈴木泰之