イースターの約束

カート・H・アスプランド牧師

「……わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」 (マタイ福音書 26:29)


 今日はイースターの奇跡を祝うために集まりました。この日、世界中の多くのキリスト教徒は、大小の無数の教会にやって来ます。春の花やよい匂いの植物がチャンセル(内陣)を飾っています。春の植物のつぼみや花が、主が墓からよみがえられただけでなく、再生と復活を思い出させます。

 主ご自身が、「……一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます(ヨハネ12:24)と教えられています。このことは生と死の自然的な循環です。

 キリスト教徒にとって、イースターは復活の約束です。その約束は、人間のいのちは死ぬことがないことを教えています。そのように私たちの主は言われています、「わたしは、よみがえりです。命です。……生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません(ヨハネ11:25以降)

 私たちは、天界のが、ご自分の神的な力で、ご自分に忠実であられた者すべてを自然的な弱さや死から上げられ、ご自分の天界の御国の光と美の中へ集められているのを思い描きます。

 復活の奇跡は驚くべきことです。私たちは、ここで、これらの花咲く植物が休眠状態から新しい生命への循環を象徴していることを知っています。この世の再び新しくされた春は私たちの心にとって、特に厳しい冬を耐えたとき、なんと喜ばしく、心を高揚させるでしょうか。人間のいのちの復活を考えるとき、私たちの友や親戚の魂が、他のすべての人たちと同じに、主によって、死のときに肉体から引き出されて、霊的な体をもった新しいいのちへと生き返させられ、決して死なない、つねに若返ると知るとき、その復活をどれほどより美しく、より満足することでしょう。それぞれの人への特別な賜物は、死のときに失われません。

 死はすべての者にやって来ます、私たちはみな、そのことによって、私たちの愛する者がこの世から呼び出されるとき、何度も心を痛めます。そのとき、イースターの復活の約束が私たちの中にとどまります。このことは、次の忘れられない言葉を書いた使徒パウロによって認められていました、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。墓よ。おまえの勝利はどこにあるのか」。彼は、「死は、勝利にのまれた(コリントT15:55, 54)と言いました。

 復活の約束は、私たちがイ−スターを喜ぶ理由の一つです。しかし、このことはイースダーを祝するただ一つの最大ともいえる理由でしょうか? 私の願いは他の理由があることを示すことです。復活の奇跡は、イースターの朝に主が墓からよみがえられ、主によって成し遂げられた、ほんとうの奇跡に比べれば、実際に、単なる一つの青白い影です。

 天界の教義である次の単純な教えを思い出すことから始めましょう――「だれもが幸福の状態で永遠に生きるようにと創造されている(神の摂理324:6)

 ここには主が私たちに望まれている事柄が二つあることに注意してください――私たちが永遠に生きるだけでなく、その生活の中で幸福であることです。「主は人間が永遠に生きると同じく、幸福の状態の中で生きることを望まれる」、「そのことなしに永遠のいのちとは何であろうか?(同書)とあります。

 永遠の幸福を見出だすのは人間がどんな状態にあるときですか? それは再生や救いの状態です。イースターの隠された約束は、もっと大きなものであり、それは救いの約束です。主の復活は、この約束を可能にします。それで、あなたがたは、永遠のいのちを持つだけでなく、永遠の幸福もまた持ちます。

 このことは主によって、新教会の天界の教義の中で明らかにされました。では何が新しいのでしょうか? キリスト教の教義では、キリストを通しての救いが教えられていませんか?

 主がニコデモに教えられたことはよく知られています――「あなたがたは再び*生まれなくてはならない」「人は再び*生まれなければ、神の国を見ることはできません(ヨハネ3:7, 3)

 ここは、新教会はすべてのキリスト教徒と一致します。私たちは救いが成し遂げられたことをどのように理解するかの点で異なるのです。その違いはおそらく次の単純な区別でしょう――

 救いの意味は、キリスト教の教義によれば、「十字架上のキリストの死」に基づいています。これに対し、新教会の教義は「主の肉体のよみがえり」に基づいています。違いは単純ですが、金曜日に起こったことと、日曜日に起こったことのように大きいものです。

 キリスト教徒の間に、キリストは私たちの罪のために死なれたと広く信じられています。それは、「利己的でない愛の行動から、主は人類の罪の代価を支払われた、そしてそのために御父は満足された、それゆえ、自分たちのためにこのことをなされた主を信じる者はすべて、その恵みを求める者はすべて救われることができる」というものです。ここから、キリストの十字架刑と死の日は、「受難日(聖金曜日)」として全キリスト教世界に知られています。それは、ご自分のいのちを進んで犠牲にされたことによって、キリストは至高の善行を成就されたという思想です。キリスト教徒の崇拝の焦点は磔(はりつけ)にされた主に向けられているのは明らかです――十字架は、そこにキリストの肉体があってもなくても、キリスト教信仰を定める最高の象徴であり、しるしです。

 このことに反して、新教会は、主の十字架刑をあがないの行為としてではなく、最後の試練での闘いとみなします。十字架刑は主のご生涯のうちの栄化の過程で、頂点を示しています。すなわち、主が世で身にまとわれた人間性の神性を示しています。このことを簡単に言えば、十字架刑は主が私たちのために耐えられたものではなくて、そのことゆえに私たちが救われるようにと耐えられたものです。主がご自身のために耐えられたのであり、そうして神的人間となられたのです。それで地上における主は、ご自分の復活だけでなく、ご自分の栄化をも、次のように語られました――

 「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください(ヨハネ17:1)

 確かに、主が世でのすべての試練に耐えられた究極の理由は、私たちの救いを可能にするためでした、しかし、救いは主の試練によって有効になるのではありません、それは私たちのいのちの中に生きた神としての主の救いの力によってです。

 新教会の人々にとって、日曜日の出来事は救いの概念を理解する鍵となります。人間のどのような復活とも似ないで、主はその全身をもって復活されました。墓には死者を包む布以外には何も見つかりませんでした。主は栄化された肉体とともによみがえられたのです。主の人間的な本質は、主の神的な本質と結合しました。主はその神的人間性の中にある至高の存在を体現しました。私たちは、十字架に付けられた主ではなく、天と地のあらゆる力を身にまとわれた、生きている主を崇拝します。

 このことはイースターの隠された約束であり、より大きな約束です。なぜなら、死からの主の復活は私たち自身の復活を再保障するものであっても、永遠のいのちへの私たちの復活はイースターの復活によらないからです。

 世の初めから、死後、人々は霊界に入って行き、このことはこれからも続きます。それでも、主の栄化は救いに本質的なものです。私たちの永遠の幸福は、そのことにかかっています。もし主がご自分の人間性を栄化されなかったら、私たちの生きる神としてよみがえられなかったなら、今日の救いはなかったでしょう。

 イースターの奇跡のこの秘義は、なんと恵み深いものでしょう。神的な肉体としての復活は、救いの希望を、天界の幸福を与えます。それは他の方法では不可能だったでしょう。

 このイースターの朝に選んだ聖句には次の約束があります。最後の晩餐で主が弟子たちとともに座られたとき、主は弟子たちに聖餐のパンとぶどう酒を与えられて、言われました――「……わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません(マタイ26:29)

 どういうおつもりだったのでしょうか? このことを弟子たちは何と理解したのでしょうか? 新教会への著作にはこの箇所が説明されています――

 「『ぶどうの実で造った物』とは、すなわち、ぶどう酒は、主はこれを父の御国で新たに飲まれようとされたが、……天界と教会のすべての神的な真理は、そのとき主の神的人間性からのものであることを意味する……(黙示録講解376:25)

 主の栄光によって設立されようとしていたその新しい国では、主は、弟子たちに彼らの神、父として、ご自身で直接に教えられるでしょう。

 人間が自分自身から、悪はその悪に漬かることを愛することによって、虚偽は自らを盲目にすることによって、最高の神性から遠く去ってしまうことは悲しい事実です。「主がご自分の中で神的なものと結合された人間性を通してでなくては、心の理性的な部分に、神的なものは流入することができない」述べられています。「主の人間性を通して、交流は有効となる。なぜなら、それによって、最高の神性が人間にやって来ることができるのだから(天界の秘義 2016)

 「至高の神性」と呼ばれるただ一人の神が存在します。人間は数千世代の罪によって、自分を神から疎外してきたことに、キリスト教を信じる者たちのすべては同意するでしょう。それは「至高の神性」が遠ざけられたことではありません。神は、私たちが人生のどんな状態にあっても、最も悲惨な悪を身に付けていても、常に私たちのだれをも愛し続けてこられ、これからも愛し続けられます。それで、主の愛を求めることで、主は私たちに、人間の形で、イエス・キリストとして来てくださいました。イエスは私たちと一緒に歩み、病気を癒し、悪魔を投げ出し、死からよみがえられました。私たちが勝手に主に抗(あらが)っているときを除けば、主は私たちに、その方ご自身と私たちの間に何の障害もない卑下した状態の私たちに来てくださいました。

「至高の神性」の力はイエスの中にあります。かつてイエスは、「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)と宣言されました。ユダヤ人たちは主を殺そうとして石を取り上げました。主は言われました、「……父がわたしにおられ、わたしが父にいることを知り、信じなさい(ヨハネ10:37以降)

 後に、弟子のピリポが、イエスに、父を自分たちに示して下さるなら満足するでしょうと、言ったとき、イエスは応えられました、「わたしを見た者は、父を見たのです……わたしが父におり、父がわたしにおられることを、わたしを信じなさい(ヨハネ14:8〜11)

 主の地上での使命は、神性を人間性に結合させ、そうして、「至高の神性」をその不変の愛とともに、人間性の本質によって到達させ、人類を救うことでした。

 女たちが朝早く墓へやって来たとき、イエスの体が見つからなかった理由は、主が誕生のときに身に付けられた肉体と心のすべての制限を越えてよみがえられ、ご自身を自分自身の神的な霊魂に結び付けられたからです。主は栄化されました。主は「至高の神性」を具現され、救いを受け入れようと望まれるすべての人に救う力をもたらしました。その時から、「すべての善と真理は……神的な本質から主の人間的な本質を通して人間にやって来た」のです(天界の秘義 2016:2)

 そのとき強くされたものはこれです――主から、すなわち、「神性と結びついた人間性から、すべての善とすべての真理が存在する(天界の秘義 2016:2)

 さらに「人間性が神的なものとされたとき、……その結果は、そのほかの方法では存在することができなかった、人間への無限なる至高の神性の流入であった……(天界の秘義 2034)とあります。

 それで、主が弟子たちに、「あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と言われたとき、主はその時から、ただ一つの力を述べようとされたのです。その力によって人は霊的なものにされるのです、すなわち、主の栄化された人間性から「再び生まれる」のです。彼らが新しく飲むことになっていた「ぶどうの実から造った物」は、「新しい教会と天界の真理以外のなにものでもない(真のキリスト教 708)のです。

 「神的なものは理解できない」と教義は教えています、「しかし、それでもこの神的なものは、それはそれ自体では理解できなくても、主の神的人間性を通して人間の理性的に流入できる、そして……そこでの真理にしたがって受け入れられる……(天界の秘義 2531)

 内的な真理はどれほど重要なことでしょう、なぜならそれらは、私たちの心の中に主が臨在される基盤だからです。「教義に関すると同時に生活に関して天使的である者たちには、……その理性は照らされており、その照らしは星と太陽の輝きに比べられるほどである(天界の秘義 2531)とあります。

 理性的な心に直接に語りかける主ご自身からのそのような真理によって、私たちは霊的に知的にされ、神の生き返ったものとされます。イースターの約束は復活の約束だけでなく、再生の約束です。なぜなら「三日目の朝の、主の復活は、……主が毎日、あらゆる瞬間に、再生した者の心の中でよみがえられることを含む……(天界の秘義 2405末尾)からです。

 「主は、再生しつつあるすべての者のもとでよみがえられる(天界の秘義 2917)

 このことは古くからの永遠のみことばである預言者たちの約束ではなかったでしょう? 

 「起きよ。光を放て。あなたの光が来られるから。主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ。暗やみが地を覆い、暗黒が民を覆う。しかし主が、あなたの上にのぼられ、主の栄光があなたに見られる……(イザヤ書 60:1-3)

 「その支配は永遠の支配であって、過ぎ去ることがない。その国は滅びることがない(ダニエル書 7:14)

 アーメン。

* * * * *

『天界の秘義』1676:2, 3

(2)天界のアルカナ(秘義)を知ることを与えられていない者は、主が地獄と戦うために降臨し、またご自身に許された試練によって、地獄を打ち負かし、勝利されることは、神の全能によっていつでも地獄を征服し、閉じ込めることおできなるから、必要なかったと考える。しかし、事実はそのようであったことは、確立されたことであり、真実である。そのアルカナそのものは、一般的なことを叙述するだけで、完全に一冊の本となろうし、人間の心には解き明かされない神の神秘について理性に訴える機会になろう、そしてまた多くの者は理解しようと欲しないであろう。
(3)それゆえ、以下のことが永遠の真理であって、そして永遠の真理であるために、そうしたものである、と知れば十分である。もし主が世に来て、ご自分に許された試練によって地獄を征服し、完全に勝利されなかったなら、人類は滅びてしまったこと、またそうでなかったなら、最古代教会の時からこの地球にいた者たちもまた救われなかったことである。

『真のキリスト教』126

 126(6)十字架の受難は、主が最大の預言者として耐えられた最後の試練であり、その方の人間性の栄化、すなわちその方の父の神性との結合の手段でしたが、あがないではありませんでした。
 主がこの世に来られ、それによって人間と天使が救われるためのものが二つあります。すなわち、あがないとご自分の人間性の栄化です。この二つはお互いに区別されていますが、それでも救いをなすことについては、ひとつです。あがないが何かは前項に示しました。すなわち、地獄との争闘であり、地獄を征服し、天界を秩序づけることです――しかし栄化は主の人間性とその方の父の神性との結合です。これは、連続してなされ、十字架の受難によって完全になされました。なぜなら、人間はすべて自分の側から神に近づかなくてはなりません、そして人間が近づくほど、それだけ神はご自分の側から入って来られます。このことは神殿と同じようなものです。それは最初に建築されますが、人間の手によってなされ、その後、献堂式が行なわれ、最後に神が臨在しますようにとの祈りがなされ、神はご自分をそこの教会に結びつけられます。この結合そのものは十字架上の受難によって完全になされましたが、その理由は、それは主が世で入られた最後の試練あり、試練によって結合がなされるからです。なぜなら、試練において人間は、外見ではまったく見捨てられたようですが、それでも見捨てられていません、なぜなら、神はその時、彼の心の最内部に臨在され、支えてくださるからです。それゆえ、人は試練において勝つ時、最内部で神と結びつき、主もまたその時、ご自分の父なる神と最内部で結ばれたのです。主が十字架上の受難で、見捨てられたことは、その方の十字架上の次の叫びから、

 「神よ。なぜわたしを見捨てられたのですか?」〔マタイ27:46〕、

 また次の主のみことばからも明らかです。

 「だれもわたしからいのちを取るのではありません。わたしが自分からそれを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それを再び得る権威があります。これはわたしの父から受けた命令です」(ヨハネ10:18)

 ここから今や、主は神性に関してではなく、人間性に関して受難されたこと、そのとき最内部で、こうして完全に結合がなされたことがわかります。このことは、人間がその肉体に関して苦しむ時、その霊魂は苦しまないで、ただ悲しむだけであるということによって説明することができます。しかし、神は勝利の後、目から涙を拭い取るように、この悲しみを取り除いてくださります。


〔*別訳:「再び」を「上から」とする訳があります〕

タイトル:The Promise of Easter
説教者:Rev. Kurt Ho. Asplundh
場所:***
併読箇所:
マタイ福音書 26:26-30ヨハネ福音書 19:41−20:16,『天界の秘義』 1676:2, 3,『真のキリスト教』 126
訳者:鈴木泰之
朗読使用歴:2005年4月3日(東京グループ/東京・葛飾・シンフォニーヒルズ)