守護天使について
カート・Ho・アスプランド牧師
「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」 (ルカ福音書 15:6)
主が、パリサイ人や律法学者に囲まれていたとき、取税人、罪人たちを仲間に入れ、食事さえも、ともにしようとしました。そのとき、パリサイ人たちは、こう思いました。「聖なる人といわれる方は、なぜ取税人たちを拒まないのか?この人たちが、どのような人であるのか知っておられるのであろうか?」そして、これらのパリサイ人や律法学者たちは、罪人と交わる主を疑い、取税人を軽蔑しました。
しかし、主はこの機会をつかって、失ったものを見出し、祝福するという、三つのたとえを話されました。いなくなった羊、なくした銀貨、放蕩息子です。今日の朗読は、この章からとったものです。いなくなった羊を見つけた羊飼いは、大喜びでその羊をかついで帰りました。そして、友達や近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊をみつけましたから、いっしょに喜んでください」と言います。感動的な場面です。心の中には、いろんな思いがあるでしょうが、羊飼いは羊をみつけたことに素直に喜びます。
すると主は、さらに思いがけない話をされました。「それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」そこにいたパリサイ人や律法学者たちは、どう思ったでしょうか?主は罪人を責めるために来られたのではなく、救うために来られました。このたとえによって、なぜ名声のある人たちと、罪人たちとを一緒にされたかわかります。罪人が悔い改めて天界に入ることこそ、天使の喜びであり、天使の心であることを、パリサイ人や律法学者たちに教えられたのです。仁愛とは、他人に優しく接することですが、人に幸せであってほしいと願い、人が救われれば、心から喜ぶことも仁愛なのです。
この羊飼いのたとえは、主の他のたとえと同じく、内的には主ご自身のことを教えておられます。主は善い羊飼いであり、迷った羊である人間を捜しに来られました。そして、すべての魂を故郷に連れ戻すことで喜こばれます。主は、人が救われたという喜びを、天使たちとも、わかちあわれます。主は、天使たちを、主の群れの霊的羊飼いとして送り、これを喜んで受け入れる者すべてに光明を与え、守り、慰めます。私たちは、これを守護天使と呼んでいます。彼らは、主のみ使いとして働き、人が悪から離れ、天界に導かれることに、無上の喜びを見出します。人から悪を取り去り、天界に導くことを、なににも増して喜びます。主を愛し、主に従おうとするがゆえに、そうしています。
幾世紀もの間、宗教は守護天使の概念を伝えています。聖典にも、明らかな根拠があります。例えば、創世記では、サライの女奴隷ハガルに天使が現れ、女主人のもとにもどるよう導きます。後では、ダニエルの預言の書で、天使がダニエルを獅子の穴で守ります。主のご誕生の後には、天使がヨセフのもとに現れ、マリアと幼子イエスとともにエジプトに逃げるよう警告します。さらに他の様々な例から、主は地上においては天使を介して、人々を守り、世話をしていることがわかります。主は天使を送って、常に人を守る任務を与えているのです。
民衆文化は、守護天使を、奇跡的な力をもっている、超自然的な存在として描き出しています。そして、災いが起こらないよう守ったり、巨悪を正したりします。今の時代は、霊的な存在に関して懐疑的ですが、神が天使を送って、人が安全であるように見守っているという期待は、なぜか残っています。詩編の契約を思い出してみましょう。主の天使は、主を怖れる者のもとに留まり、救い出します。新教会の天界の教えは、主がどのようにして天使を介して、人を守っているかを教えてくれます。たいていは、様々な社会に属する天使が派遣され、人を見守ります。彼らは私たちが知らない方法を数多く駆使して、悪と虚偽を退けます。天使は、私たちよりもはるかに優れた方法で、心にあるものを感知し、密かに、より善い方向にたわめます。驚くべきことには、守護天使とともに、悪霊もいて、人に係わってきます。すべての人の下に、最低二人の悪霊と、二人の天使がいます。地獄の影響があるところには、悪霊が係わっており、天界からの影響は、天使を通して行われます。そして魂の内では、両者の闘いがあります。幸いなことに、人は魂の内で普段に行われているその闘いを、ほとんど知ることがありません。一方で天使が闘い、他方で悪霊が闘っています。彼らは、どんな愛のもとに闘っているのでしょうか?著作は対照的に描いています。天使は人に善いことをし、永遠の幸福をつくり出すことに喜びを見出し、悪霊は、人に悪をなし、永遠の滅びに向かわせることに喜びを見出しています。両者は対極にいます。これが両者の闘いです。天使は人の救いを喜び、悪霊は人の永遠の滅びを喜びます。どちらの陣営に、自分の運命を委ねますか?
サライの女奴隷のハガルは、自分のプライドを捨て、女主人に従います。彼女がアブラムの子を身ごもり、まだ不妊の女主人を見下げる態度が出たので、サライは彼女をいじめ、ハガルは家を逃げ出します。彼女は、軽蔑と反抗心に囚われていました。その気持ちに囚われるあまり、まだ生まれぬ子とともに永遠の滅亡へ向かってゆきました。主の使いは、荒野の泉のほとりにやってきます。天使の声となった理性が語りかけます。「ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」。ハガルは自分のプライドを捨て、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」という主の使いの声に耳を傾けます。すると、「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになり」ました。ハガルは、自由のうちに、より善い途を選びました。
使わされた天使は、密かにそして穏やかに働きかけます。天使は一人で何千もの悪霊を追い払う力を持ちながら、 主はこの全能の力を用いることをお許しになりません。人はみな、 自由のうちに、穏やかに、そして段階的に、天界の秩序の状態に導かれねばなりません。一般に、守護天使は、主の意志を実現するために、超自然的な力を発揮するものだと、人は考えています。悪の企てをくじき、霊的におろかな行いを止めるため、前に立ちはだかるとイメージします。主がお許しになれば、天使は時としてそんな行いをしますが、通常は、人の自由と調和するように行動します。天使は、和らげ、たわめます。欲望を抑え込んだり、力に訴えることは禁じられており、穏やかな働きかけを行います。
預言者エリヤは、火の試みにおいて、四百五十人のバアルの預言者を一人で打ち負かし、それらの偽預言者を殺しますが、エリヤの旅はこれで終わりません。女王のイゼベルは、エリヤを殺すと宣言して脅します。エリヤは命からがら逃げ出します。荒野へ一日の道のりを行って、えにしだの木の陰に座っていました。イスラエルから、いまわしいバアルの信仰を絶やすことができなかったことに、深く落胆して、絶望の内に祈ります。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」。彼がそこで横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言いました。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になりました。それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言います。天使は、エリヤが主の前に、一人きりではないことを示し、エリヤは、もう一人の偉大な預言者に外とうを譲ります。エリヤは天使の密かな助けによって、神の山ホレブに着いて、旅を終えます。(列王記T 18, 19章)
奈落の霊が攻撃すると、何らかの方法で天使が守ります。天使は、人に残っている善と真理を呼び起こし、悪霊がまきおこす悪と虚偽に対抗させます。悪霊が攻撃し、天使が守る、これが秩序です。ここに均衡の状態が生まれ、人は両方の力の中央にいて、天界にも地獄にも、自由に向くことができます。霊は思考や欲望に流入し、天使はより知的に、人の信念にある目的の中に流入するよう、主が配慮されています。人を内から強めるのです。これは密かに行われ、人が知ることはないと言われています。しかし表には現れませんが、その効果は絶大です。人のもとにいる天使は、人の自由を尊重しますが、悪霊はそうではありません。もし人が悪を選ぶのであれば、天使は静かに退きます。しかし、人から離れてしまうことは、決してありません。人は天界と全く結びつくことができなけば、生きてゆくことができないからです。そうして、善き羊飼いのように、守護天使は、私たちが立ち返ることを絶えず願っています。
この人間の自由という観点で、バラムのろばの例をあげてみます。バラムは、ろばに乗り、モアブのためにイスラエルをのろおうとして出かけました。膨大な財宝の見返りがあったからです。しかしろばは、突然止まります。主の使いが、抜き身の剣をもって道に立ちふさがっているのを、ろばは見たからです。進めば死が待っています。ろばが前に進まなくなったので、バラムは杖でろばを打ちました。すると、ろばが口を開き、人の言葉を発しました。続いて、主はバラムの目のおおいを取り、ろばの見たものをお見せになりました。進めば死が待っていることがわかったのです。そこで、バラムはもどることにしましたが、心の中では約束の褒美に未練が残っています。すると、主の使いはバラムに言いました。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」。バラムは、自由のうちに、旅を続け、心の中では欲望を隠しつつも、イスラエルへののろいを祝福に変え、主の誕生を美しく預言しました。(民数記 22章)
著作はまた、人の側でも、天使を自分の <いのち>の内に喜んで迎え入れることができると述べています。それには、教えでいう、流入の面が必要です。これは、天使が留まることのできる基盤、すなわち信念であり、信仰の真理を学び、真理への情愛が深まることで、得ることができます。信仰の真理が、天使にとって人の〈いのち〉に働きかけることのできる面となります。しかしこの面は、真理と愛が実行に移されなければ、得ることができません。言い換えれば、信仰に生きなければならず、加えて、主を認めることが重要です。これら二つが共になって、人に霊的〈いのち〉の基礎を作り上げます。
ダニエル書に、この信念が例となっています。ダニエルはバビロンに囚われていますが、宮廷の中で力のある地位につきました。流浪の間中も、ダニエルは、エルサレムに向けて日に三度、祈りを続けていました。王が神への祈りを禁じる命令を布告しても、そうしました。その結果、ダニエルは獅子の穴に、一晩の間、投げ込まれます。翌朝、王が来て、悲痛な声でダニエルに呼びかけ、言いました。「生ける神のしもべ、ダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか」。するとダニエルは、「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」と応えます。獅子によって、人の心にある怒りからくる、すさまじい激情が意味されます。事実、ダニエルはその晩、天使によって守られていましたが、それは地獄の力が強められていたからです。ダニエルが、絶えず神に祈り、囚われてさえ主に従おうとしたので、天使は、それを基盤とすることが可能となり、破滅させようとする力からダニエルを守ることができました。ダニエルの体は獅子の歯牙にかかる寸前でも、地獄からわき起こり、魂にやってくる、すさまじい復讐の怒りは、触ることすらできません。(ダニエル書 6章)守護天使は、とくに霊的な攻撃から人の魂を守ります。魂への攻撃は、体への攻撃に比べると比較にならないほど凄まじいものです。事実、人の自然的な〈いのち〉は、より重要な霊的目的のために、苦しむようになっています。これは、災難や惨事において、天使が人を見捨てる、ということではありません。天使は愛から物事を見極め、守護する人間を、優しく、そして主ご自身の愛を手本として、情熱的に、世話をしています。驚くべき事に、この愛は本当に強く、戦場で闘う勇敢な戦士のように、天使は自身の〈いのち〉すらかえりみず、地獄からですら、人の魂を救い出そうとします。できることなら、天界にある自分の魂を、地獄にある魂と引き替えにしてまで救い出そうとして、かえって地獄自体が苦しむほどです。
主がこのような天使を私たちに送られ、そんな愛をいだいた者と共にいられるということは、素晴らしいことではないでしょうか!彼らの喜びは、私たちの魂を天界に導くことです。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。・いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」 アーメン
タイトル:Our Guardian Angels
説教者:Rev. Kurt Ho. Asplundh
場所:2005年2月6日 ブリン・アシン大聖堂
併読箇所:詩篇91:1-13,ルカ福音書 15:1−7,『天界の秘義』 5992:3
訳者:松本士郎
朗読使用歴:2005年3月6日(東京グループ/東京・葛飾・シンフォニーヒルズ)