主の栄化と人間の再生
アルフレッド・アクトンII 司教
(イエスは言われた)「父よ、あなたの御名を栄化してください」。
そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄化したが、またもう一度栄化しよう」
主が世に来られたこととそのご復活は、私たちの世界で、歴史上の最も重要な一連の出来事です。イエス・キリストの使命――主がこの世で達成しなければならなかったこと――は明らかです。すべての創造物を引き続きどのように保持しようか――どのようにして、私たちを見捨てないで満足させ、導き、救おうか――と配慮されているのです。主が審判をもたらされなかったなら、私たちの自由は破壊されていたでしょう。摂理は単に反応する力ではありません。私たちを救うため活発に働きます。私たちはこの働きを主の誕生と復活の中に見いだします。私たちは悲劇の最中に主のご配慮を知ることもあります。例えば、最近のアメリカでのテロリストの行動に対し、必ずこの悪への裁きが下ります。人々の献身的な活動を通して主から注ぎ出される愛は、私たちの自由を守るようにと働く中で、摂理の力を示しています。
しかし多くの人々は、主の栄化について、それらすべてを誤解しています。主はご自分の人間性を栄化されるために来られました。しかし、これは何を意味するのでしょうか? ある人にとって、主が世に降臨されたことが、救いの働きであり、救いそのものです。そしてただキリストを信じるだけで、私たちは救われます。しかし、この考えの全部は、私たちのすべてが二人の人間アダムとイヴの原罪によって地獄へと断罪されているという概念に基づいていることに注意してください。二人の人間がたった一度の罪深い行動によって、すべての人類を罪に定めたとは、明らかに疑問です。そうして、信仰によって一瞬にして救われるという概念は、この信念に基づいています。
洗礼を天の御国へ入るための鍵であるかのように考える人もいます。しかし洗礼は人々が天界へ行く道です。主は、受洗した者を、もしその者が教会の教えにしたがって生きるなら救われるのです。
さらにまた、イエス・キリストを神ではなく人間と見なす人もいます。彼は霊感を受けた人間であり、私たちに真理を教え、その教えは大部分の者に受け入れられるものであった。おそらく彼はパウロやシェークスピアと同じような霊感を受けている、とします。
新教会の私たちは、主がこの世に来られたことについて、主が私たちの間に現存されたことについて、これらとは非常に異なる考えを持っています。私たち新教会の者は、主が私たち一人ひとりを創造される目的を持たれていたことを知っています。創造の始めから、その目的は人類から天界を造ることでした。無限の愛である主がその愛の対象を探し求めていました。創造された私たちそれぞれの中にある目的は、自由な意志から主を愛することを選ぶことによって、天界での幸福を見いだすことです。しかし、私たちに愛さない自由がないなら、本当に愛することはできません。私たちの救いのためには、主を拒否する自由すら許しておくことが必要でした。奇跡的に私たちを天界に押し込むために、主がこの世に来られたのではありません。それは、私たちとって、主を愛することを選ぶために必要な自由の回復でした。ここから私たちは主の使命を知ります。イエス・キリストのご使命は、私たちを自由にすることでした。主はこれを栄化によってなされたのです。
しかし「栄化」とは何を意味するのでしょうか? 栄化は何かに栄光を与えることです。栄化するためには、栄光を受けていない何かがなくてはなりません。主の場合、その何かとは人間性です。人々が悪を選ぶと、その人間性は低下します。その人間性を栄化と反対のものにしてしまいます。さて、主の来臨についての預言は非常に早くからなされていたことがわかっています。アダムとエバの物語の、ヘビに対する呪いの中で、主の来臨が予言されています。私たちが内部の人間性を低下させてしまったので、私たちの自由を保つために、主は来なければならなかったのです。主は、私たちが主を一人の完全な人間として見ることができるように、その人間性を栄化する必要がありました。栄化は、人々が栄化と反対のものとしてしまったものを栄えあるものにする過程、低下した人間性を「輝かす」過程です。
しかし、その過程はどのように働くのでしょうか? 栄光とは何を意味するのでしょうか? 少しの間、自分の家を建てることについて考えてみてください。家を建てようとするとき、最初に必要なものは、その家を建てる理由、また目的でしょう。主にとって、目的は人類の自由でした。しかし、私たちにとって、目的は住むための場所という単純な要求です。建築の次の段階はその家の設計です。どんな寝室を望みますか? どんな台所、居間、個室が必要ですか? 私たちは家をそこに住めるようにと計画します。計画の到達点はその家の中での生活です。すなわちその建物の中での生活が建てる目的です。個人として、私たちは生活の中で霊的な目的を持っています。私たちは天界での幸福を求めます。それは私たちを創造された主にとっても目的の一つです。私たちは、この到達点までの過程を「再生」と名付けます。これは、栄化の過程と平行する過程です。私たちはまた、私たちの再生を達成するための計画が必要です。主は私たちにこの計画を与えてくださいました。その最初の輪郭は旧約聖書の中に描かれています。もし再生を望むなら、私たちは主の十戒に従う必要があります。それは何をしてはならないかを教えています。新約聖書では、主は私たちが何をすべきかを示すことでご自分の計画を展開されています。私たちは最初にどのようして悪の行ないをやめるかを、それからどのようにして善を行なうかを学びます。「著作」では、悔い改めの過程がどのように進むか、そして主によって私たちの改造と再生が行なわれることを私たちに示すことによって、全部の計画を詳細に示されています。私たちは私たち自身を調べなくてはなりません。私たちの中の悪を、それらの悪への傾向を、また実際に私たちの行なった悪を知る必要があります。私たちがこれらの悪を知るとき、その一つを取り上げ、これを主に対する悪と見なします。そのとき、その悪を行ないたいという大きな欲望に打ち勝つために、主に助けを祈る必要があります。
次に、私たちはその悪をやめ、善を行なうことを始めるべきです。その間中、「私たちとともにに主がいてくださる。主が私たちのために戦ってくださる。主の真理を聞き、試練に入る力を与えてくださる。試練に直面し、それに勝利したとき、喜びと新しいいのちを見いだす」と信じるべきです。
計画について家を建てる比喩を用いましたが、主の栄化の計画は旧約聖書に見いだされます。例えば、今日の第一朗読は、アブラハムが自分の息子を生け贄にしようとした物語であり、心に強く訴えるものです。これは、主が地上で直面することになるであろう最も過酷な試練を描いた物語です。主はご自分の試練の全計画を知ることになりますが、それは旧約聖書に書かれていたのです。
家を建てる次の段階は、すべての材料を手に入れ、実際に建築し始めることです。実際の建築は栄化に似ています。新約聖書を見れば、次から次へと主が通過された栄化の過程が非常に明らかに描かれていることがわかります。いく度も、パリサイ人たちが主のところにやって来て、主を試み、試練に会わせたことがわかります。主は、私たちと違って、ご自分の力から戦われました。主は、いのちを再生し、栄化する必要があったからです。地獄から地獄へと試みられ、ご自分の力から戦われる中で、主はそのとき直面された地獄に対し、新しい真理を語られ、命令を下されました。真理を語られるとすぐに、主はそれぞれ個々の地獄に対する力を得られたのです。この新しい力は、主のなされた奇跡の中に見られます。次から次へと、地獄から地獄へと、主は勝利されました。栄化は一度だけの出来事ではありません。それは、主が子供時代に直面した最初の試練から、最終の試練――十字架の受難――までのすべての道程で連続する過程です。いく度も、主は栄化されました。主は一度に一つの地獄を征服されたのです。
私たち自身の生活で、いく度も、私たちは試練に直面します。しばしばそれは、おそらく、ほとんど同じような形で戻ってくるように見えます、そしてまったく繰り返しのように戦うのです。しかし、主の助けを受けて、私たちが勝利するときはいつでも、私たちは役立ちの生活の中で喜びを見いだします。私たちが自己本位を捨て去るとき、私たちは献身の中に喜びを見いだします。主は私たちの中に存在することができます。いく度も、私たちは再生の段階を通過します、ちょうど主が繰り返し栄光の状態に入り、また卑下または試練の状態に戻られたようにです。今日の聖句のように、主は栄化され、またさらに栄化されるのです。
さて、家を建てるという類推に戻りましょう、家が完成したとき、その家の中での生活がなければ、その過程は役立ちません。主の場合は、旧約聖書にその計画が描かれていました。新約聖書には、栄光の過程が記されています。「新しいみことば」で、主は私たちに、その結果を見ることを授けられました。今日、私たちには、一人の目に見える天地の神としての主を見る特権があります。私たちには、主を、王の王、主の主として見る特権があります。
どのように主がご自分の栄光を達成されたか、私たちは振り返って見ることができます。また主がその段階を私たちのために踏まれたかを知ることができます。私たちがその方を理解し、知ることが可能となるためにです。私たちは今や、新しい方法で、その方を愛することができます。私たちは、この地上でも、天界の王国でも有益な役立ちの喜びに入ることができます。
私たちは、最初はいつしか過ぎてしまい、それからより強力な再生の状態を経験します。そしてそのとき、私たちは、再生の状態と試練の状態の間を後ろへ戻ったり前へ進んだりします。それでも、私たちには主を知り、この過程を知ることのできることの喜びがあります。「著作」には、主の栄化の最も深い意味が見られます。今や、私たちは神を見ることができます。しかしその見ることは、過程で何が起こったかを知るという後ろ向きのものばかりではありません。みことばの中の主を、さらにまたさらによく理解するようになるときは、前向きに見ています。私たちは主のご性質を知ることができます。神を見ることができます。天地の無限の創造者が私たちとともにおられます。『神の愛と神の知恵』の本を見てください。そこには神の本質が書かれています。他には『神の摂理』の本を見てください。そこには神がどのように働かれるかが書かれています。そのご性質が描かれています。神は常に配慮され、常に高揚させ、決して立ち去らずに、常にご臨在されます。他の本『結婚愛』を見てください。そこには再生の生活の中で主を見上げる者に注がれる主からの素晴らしい賜物が書かれています。主がご自分を啓示された驚くべき最高の著作『真のキリスト教』を見てください。それは新しい教会の信仰を概説しています。
私たちは、人類を救うために世に来られた一人の神、主イエス・キリストを信じます。まさに私たちには神を見る特権があるのです。私たちが天界の御国に入るとき、その方は栄化され、そして私たちが永遠に再生されるように、ちょうどそのようにさらにまた栄化され続けています。そこの方はみことばの文字の中に、さらにまたさらにと私たちに見られるようになっています。主は私たちとともにいらっしゃいます。主は私たちの内部に現存されます。主は私たちに見られるのです。主はご自分の人間性を栄化されました、それで私たちは今や見ることが、完全な形で崇拝することができるのです。主が支配され、そしてその方の御国は永遠に続くからです。
(イエスは言われた)「父よ、あなたの御名を栄化してください」。そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄化し、またもう一度栄化しよう」。アーメン。
タイトル:Glorification and Regeneration
説教者:Rt. Rev. Alfred Acton II
場所:東京集会2001(東京・墨田区・アルカイースト)
併読箇所:イザヤ14-4-15, ルカ福音書 18:9−14,『天界の秘義』 7819
訳者:鈴木泰之